安倍晋三元首相への、評価―よい評価と、悪い評価

 安倍晋三元首相が殺された。

 生前の、政治家としての安倍元首相を、どのように評価づけできるだろうか。

 人によっては、とんでもなくすばらしい政治家だったのが安倍元首相だと評価づけする人もいるだろう。

 一〇〇点が満点だとすると、一〇〇点または〇点だと基礎づけたりしたて上げたりはできないのが、安倍元首相にたいする評価だろう。

 一〇〇点または〇点だとしてしまうと、評価のしかたとしては単純だろう。そのどちらかだとしてしまうと、基礎づけたりしたて上げたりすることになってしまう。

 一〇〇点だとしてしまうと、正のところだけを見ることになり、負のところを切り捨てて捨象してしまう。否定の契機(負のところ)を隠ぺいしてしまう。否定の契機を隠ぺいせずに、そこを見ていって、点数をどんどんけずり落として行かないとならない。上げ底にすることを改めなければならない。

 単純にではなくて、複雑なものとして見てみると、悪いけど良かった、または良いけど悪かったとできる。

 いまの世の中は、複雑な社会だから、人もまた複雑化する。単純な評価づけはできづらい。良いだけなら良いだけ、悪いだけなら悪いだけとはしづらい。

 どのような評価づけを安倍元首相にたいしてするのかは、人それぞれの自由だろう。それぞれの人の自由な見なし方に任されている。

 あらかじめ、安倍元首相はこうだといった像がある。その像が先行していて、それにもとづいて安倍元首相を評価づけすることになる。先行している像は、枠組み(framework)であり、その枠組みを抜きにした、はだかの安倍元首相はありえない。

 だれしもが、自分がもつ枠組みを通して、その枠組みの影響のもとに、ものを見て行くことになる。たとえば、右派の枠組みや、左派の枠組みがある。右派の枠組みだったら、安倍元首相をべたぼめすることになる。左派の枠組みだったらきびしめの批判の見なし方になる。

 一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)すると言われるのがあり、すべてを知りつくすことはできないから、ある部分を知るのにとどまる。

 ぜんぶを知った上で、安倍元首相のことを評価づけすることはできないから、せいぜいが何個かの斑を知ることができるのにとどまり、全豹まではわからない。全豹のうちで、それぞれの人がとらえる斑にはかたよりがあるから、どういった斑を見て、全豹にたいする評価づけをするのかがちがってくる。斑の範ちゅう(集合)のなかには、よい価値の斑もあれば悪い価値の斑もある。

 良いことは限定化されて、悪いことは一般化される。心理としてそういったふうになる。安倍元首相は、政治において、良いこともしたが悪いこともした。良いことをしても限定化されやすく、悪いことをしたのは一般化されやすい。

 安倍元首相が政治でやったいろいろな悪いことは、一般化されやすいから、良いことをなしたのよりも、悪いことをなしたことのほうがより周知されやすい。良いことをやっても、あまり周知されづらい。

 安倍元首相は、政治で悪いことをあまりにもいろいろとやっていたから、そもそもがだめなのがある。政治家としては、悪いところが多かった。そう見なしてみたい。悪いことは一般化されやすいから、政治でなしたいろいろな悪いところが目だつことになる。

 悪いことはとくに目だちやすいのを、かりにさし引いたとしても、それでも安倍元首相は悪いところが多かったことには変わりはなさそうだ。これはかたよりやゆがみ(bias)がある見かたではあるけど、政治家にたいしてはきびしい見かたをとりたいから、甘く見なすことはできない。

 参照文献 『象の鼻としっぽ コミュニケーションギャップのメカニズム』細谷功(ほそやいさお) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦