与党である自由民主党の総裁選にのぞみたいこと―汚れやうみを吐き出して行くことがいる

 与党である自由民主党の総裁選が行なわれる。自民党の総裁選ではどういったことがあればのぞましいのだろうか。

 自民党の総裁選では、自民党が抱えているたくさんの汚れやうみを外に吐き出して行く。いままでに党の中にたくさんためこまれている汚れやうみを少しでも外に出して行くことがあったらよい。

 いま権力をにぎっている菅義偉首相をふたたび長として選ぶのだと、かわりばえがしない。たんに、党がこれまでにためこんできた汚れやうみを隠すためのフタとしてはたらく政治家が選ばれるだけにとどまる。フタとしてはたらく政治家ではなくて、フタを引っぺがして、フタをとり除くような政治家が選ばれるのがのぞましい。

 フタを引っぺがしてとり除くような政治家とは、党の中でわきに置いやられて冷遇されて辺境に置かれているような人だ。党の中で辺境に置かれているような人が選ばれるのでないと、総裁選をやる意味はほとんどないだろう。いうなれば、らんぼうな言いかたではあるが、党をぶち壊すような人が選ばれたほうがよい。それくらいでないと、自浄作用を失ってしまっているから、そんじょそこらのことでは汚れやうみを外には吐き出せない。

 二〇世紀の後半のような大量生産と大量消費の産業社会ではいまはなくなっている。産業社会ではなくて脱産業社会になっているのがあるが、そのいまの時代のあり方に自民党はうまく適合できていない。いまだに古いあり方を引きずりつづけているのが自民党のあり方だろう。いまの時代のあり方に不適合になっているのだ。不適合などころか、復古や反動ですらあるのだ。

 いっけんすると日本の社会の中で自民党は勝ちつづけていて強いようではあるが、必ずしも安定しているとは言えそうにない。権威主義による安定になっているのが自民党のあり方だから、いったん安定が崩れてほころびはじめたら弱い。がらがらと崩れ去ることになる。集団が危ないあり方をしているのである。

 二〇世紀の後半の産業社会のあり方ではなくて、脱産業社会のあり方になっているなかで、どういった人を選ぶのかのものさしがとりづらい。どういう人を選んだらよいのかがわからなくなっている。それで菅首相が選ばれているところがある。菅首相が選ばれるのではなくても、これぞといった人が選ばれることは基本として見こみづらい。どういう人が選ばれるにしても、適していないところがある。たいこばんをおせるほどの適材ではない。

 選ばれた人は勝ち、選ばれなかった人は負ける。脱産業社会のなかでは、勝ったからすごくて負けたから駄目だとは言いがたくなっているところが強い。勝つことと負けることの優劣のちがいが逆転しているのがあり、勝ってもすごくないとか、勝ったから駄目だといったことがたびたびおきている。

 いちじるしく科学のゆとりが欠けているのが自民党だが、科学のゆとりをもつようにして、総裁選をやるからにはじっくりと労力をかけてやってみたらどうだろうか。さまざまなものを例外をつくらないようにして徹底して疑って行く。自明性を疑って行く。とりわけ党の中で権力をもった中心にいる政治家のあり方をできるかぎり疑っていって、力を入れて反省して行く。

 ふたたび菅首相が総裁として選ばれるのにしても、ただたんに権力を保ちつづけることが自己目的化してるふしがうかがえる。そんなふうなことであっては、たとえ菅首相がふたたび選ばれるのだとしても、国民からそうとうにきびしい否定の評価づけをつきつけられることになる見こみがある。

 国民からじかにきびしい否定の評価づけをつきつけられるのであれば、それがおきる前に、前もって党の中で権力をもつ中心にいる政治家にたいして厳しい批判を行ない、はげしい政局の闘争を行なっておくのは一つのやり方だろう。いずれにせよ日本の政治の世界の全体で大きな政局の闘争がおきるのは避けられないのがもしかしたらあるかもしれない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『選別主義を超えて 「個の時代」への組織革命』太田肇(はじめ) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『正しく考えるために』岩崎武雄