東京都でひらかれた五輪は金メダルものだったのか―五輪への定義づけ

 二〇二一年の夏に東京都で五輪がひらかれた。その五輪はまさに金メダルものだった。与党である自由民主党の前首相は雑誌の記事のなかでそう言っていた。

 日本の国の国民が一丸になったことで、東京都でひらかれた五輪は大成功した。五輪で選手が活躍して、表彰台に日の丸がかかげられた。そのことによって日本の国民のきずなはより強まった。

 前首相がいうように、五輪はまさに金メダルものだったのだろうか。五輪を行なうなかで国民が一丸となり、国民のきずなはより強まったのだろうか。

 いまはパラリンピックがひらかれているさいちゅうだが、それは置いておけるとして、五輪がどういったものだったのかをふり返るさいには、それをどのように定義づけするかが関わる。

 五輪についての前首相の定義づけはかなりかたよりが強い。かなりよいものとして五輪に含意をもたせている。よいものとして五輪を象徴化している。象徴化することによって、ほかのさまざまなものが切り捨てられて捨象されているのがいなめない。

 すごくよいものだったのが五輪だといったようにしたて上げたり基礎づけたりできそうにない。よいものにほかならないものだったとして五輪をしたて上げたり基礎づけたりするのには無理がある。ごういんである。

 国とはそもそもが共同幻想による産物だから、国のまとまりは幻想である。国のなかで国民が一丸となることはおきづらい。五輪がひらかれたくらいで、国民が一丸となったのは事実ではないことだ。うそにほかならない。大げさに言いすぎている。

 むりやりに一丸にしようとして、一つの方向に動かそうとすることで、まちがった方向に向かって進んで行く。それがかいま見られたのが五輪だろう。一丸になるからよいのではなくてむしろ駄目なのである。一丸になっているのだと抑制と均衡(checks and balances)がかからない。抑制と均衡が欠けていることによって、五輪においてまちがった意思決定が色々に行なわれることになった。

 いろいろな選手たちが五輪で活躍したことはたしかであり、それで国民の少なからずが盛り上がったこともまたたしかだろう。それらがあったことはたしかだが、それらは一時における盛り上がりにすぎないものだろう。あまり持続するものだとは言えそうにない。いちおう形としては盛り上がったところがあるといったことにとどまりそうだ。強さとしては弱いものである。

 日本の国は精神主義が強いのがあるが、それが五輪にあらわれ出た。前首相が言っていることにそれがかいま見られる。精神の面に重みをもたせるさいに用いられることになるのがきずなの語だが、これは日本の国の心でっかちなあり方が映し出されているものだ。精神に重みをもたせることでいろいろなものごとを片づけて行こうとする日本の国の悪いところが出ている。心でっかちになりすぎているのを改めることがいる。

 ひらかれたばかりなのが五輪だから、生々しさがあり、ふり返りづらいのはあるが、それをさし引いたとしても、前首相が五輪について言っていることはずさんなところがある。五輪にたいする定義づけがかたよりすぎだ。この定義づけのおかしさは、五輪だけにかぎらず、日本の国の歴史をとらえるさいにもおきているものだろう。歴史修正主義がはびこることにつながるものだ。

 五輪をふり返るさいに、そのとらえ方がおかしいのであれば、そのほかのさまざまな歴史のことがらについてのとらえ方もまたおかしいものになりやすいものだろう。いまの時代はいろいろな情報の媒体があって、情報の技術が進んでいるために、いろいろな情報がたくさん流通する。

 五輪がどうだったのかは、情報を通して間接に知ることができるのにとどまり、その全体像を知ることはできづらい。全体像として、五輪がどういったものだったのかは、よくわからない点が少なくなさそうだ。いろいろとおもてに出てきてはいない隠されたことがありそうである。それそのもの(presentation)のすべてを自分の目や耳でじかにとらえることはできづらく、情報によって間接に知ることになるから、表象(representation)が形づくられる。

 五輪についてのすべてのことが情報として人々に広く公開されているのではないのがある。光だけではなくて影(悪い部分)もそうとうにあることがおしはかれる。影のほうが光をしのいでいる見こみがある。影が光をしのいでいるのは、そこに退廃(decadence)があることであり、失敗がおきたことをしめす。五輪によって損や害を受けて負担をこうむる人がいることは否定できない。光に当たるよいところばかりではない。

 光も影もすべてをふくめた全体像を総合としていっきょにとらえることはできづらく、せいぜいが部分を個別に分析することができるのにとどまるかもしれない。雑に総合してとらえるのではなくて、できるだけていねいに分析として見て行くことがいる。森の中に木があるとして、光があたっている木だけを見て森の全体に一般化するのはやや性急だろう。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫