五輪を応援したり楽しんだりするべきなのか―義務と許可のちがい

 東京都で夏に五輪がひらかれはじめた。ひらかれはじめたのだから、みんなが五輪を応援するべきなのだろうか。みんなが楽しむようにするべきなのだろうか。

 応援したり楽しんだりするべきなのかどうかは、義務なのかそれとも許可されているのかに分けてとらえることがなりたつ。

 義務はそれをやらないことがよしとはされないものだ。それをやることが正しくて、やらないことはまちがっている。いっぽうは正しくて他方(違反)はまちがっている。きついあり方だ。

 許可は権利と同じで、やってもやらなくてもどちらでも正しい。ゆるいあり方だ。許可されているものをやったり権利を行使したりすることと、その反対に許可されていることをやらなかったり権利を行使しなかったりすることのどちらもが正しいのである。たとえば発言の権利があるからといって、発言をしないとならないとはいえない。

 義務には完全義務(消極の義務)と不完全義務(積極の義務または努力目標)がある。すべての人がやらなければならない命令なのであれば完全義務だ。五輪を応援したり楽しんだりすることがそれに当たるのだとは言えそうにない。もしもそれをやらなければ罰を科されることになるのではない。

 大前提の価値観として、そもそも五輪を応援したり楽しんだりしなければならないのだとは言えそうにない。だから義務だとは言えないものだ。できるだけそのように努めなければならないともいえないから、それが許可されているといったことであるのにすぎない。

 応援したり楽しんだりする人がいてもよいし、それらをしない人がいてもよい。どちらであっても自由だといったことであるのがよい。どちらかだけが許容されるのではなくてどちらも許容される。応援したり楽しんだりすることは愚かであるかもしれないし、その逆にそれらをしないことが愚かであるのかもしれない。いずれにしても自己決定権(personal autonomy)にまかされることだろう。

 どういったことが義務に当たるのかといえば、それは五輪を応援したり楽しんだりすることなのだとは言えないのがある。義務に当たることといえば、すべての個人の生存権がひとしく満たされるようにすることだろう。すべての人が健康で文化による最低限の生活を送れることがいる。

 力を入れられるべきなのは、個人の生存権が満たされるようにすることだが、そのことがなおざりにされてしまっている。五輪をひらくことによってわざわいを生んでしまっている。果たされるべき義務が果たされないことがおきてしまっている。許可されているのにすぎないことがあたかも義務であるかのようにされてしまっている。

 義務と許可についてを整理してみられるとすると、できるだけ果たされるべき義務があるが、それが十分に果たされていない。果たされるようになるべく努めることがいる義務が軽んじられている。とくに果たされなくてもよいことが、あたかも果たされるべきことであるかのようにあつかわれている。

 日本の国では、天皇制があることから、人の命が軽んじられてしまいやすい。天皇制では、天皇のために国民の命を捨てさせたのである。天皇や国体を守るために国民はいざとなったら死ぬべきだとしていたのだ。天皇との距離の遠近法(perspective)がとられて、天皇と距離が近いものは価値が高くて遠いものは価値が低いとされた。それがいまでもとられつづけている。そこから大前提の価値観がおかしくなっている。

 大前提の価値観がおかしくなっているために、ほんとうは義務としてそうとうに重んじられることがいることが軽んじられている。不平等さがおきていて、個人の生存権が満たされないことがおきている。とりわけぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ個人に大きくしわ寄せが行く。天皇制がわざわいしている。日本の負の歴史をないがしろにしていることがたたっている。五輪をひらくことにおいてそれがかいま見られるのがあり、心の底から心おきなく応援したり楽しめたりすることができるのだとは言えそうにない。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章、道田泰司他訳 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『十三歳からの教育勅語 国民に何をもたらしたのか』岩本努 漫画 たけしまさよ 『現代倫理学入門』加藤尚武 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『論理的に考えること』山下正男