五輪と、日本が金メダルをたくさん取ること―公正さの欠如

 日本はこれまでで最高の十六個の金メダルをいま東京都でひらかれている五輪ですでにとった。このことが意味することとはいったいどういったことだろうか。

 たくさんの金メダルを日本の国がいま東京都でひらかれている五輪でとっているのは、そこに公正さ(fairness)が欠けているからだろう。不公正(unfairness)になっていて、かなり上げ底になっている。

 公正さが欠けていて、不公正で上げ底になっている中でたくさんの金メダルを日本はとっているが、そこにたしかな意味や価値があるのだとは言えそうにない。

 多くの金メダルを日本がとっていることが意味することとしては、日本の国は公正さをないがしろにしている。公正さに価値を置いていない。不公正さを野放しにしている。日本の国があたかも力を持っているかのように上げ底にして見せかけている。

 公正さが欠けていて不公正さが野放しになっているのが日本の政治だ。不公正なことが平気でまかり通ってしまっている。国家主義(nationalism)の方向性が強まっているのがあり、それが五輪に映し出されている。

 日本の国でひらかれているのだから、日本人に有利になりやすい。それをさし引くようにして、ほかの国に有利になるようにすることがあってもよいものだろう。日本の国を上げ底にして日本に有利にするのではなくて、ほかの国に有利になるようにして、ほかの国が不利であるのを埋め合わせるようにする。

 五輪をひらいているのが日本の国なのだから、日本が主役になって中心におどり出ようとするのではなくて、わき役に回るのであってもよい。ほかの国が目だって活躍するようにして、日本はなるべく目だたないようにする。日本はほかの国の引き立て役に回る。おもてなし(hospitality)の点からすればそういうふうであってもよいものだろう。

 日本の国にはおもてなしの精神がいちじるしく欠けているために、日本の国を第一にして中心化している。ほかの国が不利になって、日本が有利になるようにしている。公平さが欠けていて不公平である中で、日本の国がたくさん金メダルをとったことを、さもすごいことであるかのようにしている。そこに見てとれるのは日本において国家主義の方向性が強まっていることである。よくないことになっている。日本の国がたくさん金メダルをとっていることは、かならずしも手ばなしでよろこべることだとは言えそうにない。

 野球の野村克也監督は、勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしと言っている。個々の選手のことは置いておいて、日本の全体の五輪での金メダルをとった多さは、不思議の勝ちといったところがあるものだろう。勝つことよりも負けることからのほうがより多くのことを学ぶことができる。勝つことに必ずしも絶対の価値があるとは言い切れない。

 五輪をひらいているのが日本の国なのだから、日本は金メダルがゼロ個でもよい。極端にいえばゼロ個でもよい。日本はゼロ個でもよいから、少しでもほかの国が金メダルをとれるようにする。それで日本の国のことを脱中心化して行く。金メダルをたくさん取ることにはとくに価値はないのだから、ほかの国が金メダルを少しでも多く取れるようにするのでもよかった。そうしたほうが、日本の国の器の大きさを示すことができた。ほかの国にゆずるようにしていれば、日本の国が科学のゆとりを持てていることを示せた。

 一個でもよけいに金メダルを多くとりたいとの欲が日本の国には強すぎて、それがかえって日本の国の器の小ささを示すことになっている。科学のゆとりが欠けていて、ゆとりが持てていない。金メダルを一個でも多く取ることに強くこだわるところからすると、どういったものに本質としての価値や意味があるのかを日本の国がわかっているのだとは思えない。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)