最終戦争さえなければ五輪はひらかれるのか―自律性と他律性

 世界中を巻きこむような最終戦争でもおきないかぎりは五輪はひらかれる。国際オリンピック委員会(IOC)の関係者はそう言っている。

 最終戦争でもないかぎりは日本の東京都で五輪はひらかれる。そう言われることを、どのように見なすことができるだろうか。そこから見てとれるのは、五輪が他律性(heteronomy)によっているあり方だ。自律性(autonomy)が欠けている。

 他律性は自分の外にある超越の他者(hetero)による支配(nomy)をさす。自律性は自分(auto)による統治(nomy)だ。自律性は自己管理や自己統治や自己構成や自己立法とも言われる。nomy は古代ギリシア語の nomos から来ていて、nomos は秩序や法の意だ。nomos はもとは古代ギリシアの行政の単位の名で、それが転じて秩序を意味するようになったという。

 五輪は他律によっているので、慣習と化している。四年に一度ひらくことが慣習になっていて、その慣習が正しいことになってしまっているのだ。その正しさがうたがわれていない。

 慣習と化しているからといってそれをやることが正しいとは限らない。慣習についてを範ちゅう(集合)と価値に分けて見ることがなりたつ。慣習となっているものの中には正の価値のものだけではなくて負の価値を持つものがある。時によっては負の価値をもつものがある。

 それをやることが慣習と化しているものの中には、あらためてみると正の価値ではなくて負の価値をもつものがある。すべての慣習が正の価値をもつのではないから、負の価値をもつものについてを改めて行く。他律によるだけではなくて自律によって反省することがいる。

 自律によって反省することが欠けているのが五輪だ。自律の反省が欠けているので、他律の慣習のままになっている。日本の国は既成事実となっているものに弱いのがあるために、それが悪用されている。既成事実が重みをもつ。五輪をひらくことが既成事実になっている。

 既成事実となっていて、それが重みをもち、慣習となっているのが五輪だ。自律によって反省されていない。慣習となっている五輪をひらくことが正しいことだとされて、そこに正の意味づけが行なわれる。慣習を引きつづき行なって行くことが自明であるかのように見なされる。

 慣習を引きつづいて行なって行くことが自然であるかのように見なされる神話作用がはたらく。神話作用がはたらくことによって自律による反省が欠けることになる。欠けてしまっている自律による反省を行なうようにして、他律の慣習を見直して行く。他律の慣習によるのが正しいとされることに疑いをもつ。

 IOC の言うことにさからえずにそれに従わざるをえなくなっているのが日本の政権だとすると、日本の政権は他律におちいっている。IOC によって日本の政権は動かされている。日本の政権が他によって動かされてしまっているのは、他律によっているからだ。自律の反省を欠いている。

 他律の慣習によっているために、日本の政権は自分たちの意見を持っていない。IOC が言うことにそのまま乗っかってしまっている。IOC と協調してしまっていて、対立がない。IOC のことをはたして信頼することができるのかといえば、全面として信頼することはできづらい。

 IOC にとっては日本の国のことはあくまで他人ごとであり、日本の国のめんどうを見たり責任をとったりしてくれるわけではないから、信頼するわけには行かない。信頼できないところがある IOC と協調してしまっているのが日本の政権であり、日本の政権もまた信頼することができない。

 五輪にかぎらず、日本の社会のなかにはさまざまな他律の慣習があり、それが自律によって反省されていない。日本の国は既成事実に弱くて、それが重みをもつ。それがあだになってしまっていて、他律の慣習が強まりやすくて、自律の反省を欠くことが多い。そのことが見てとれるのが五輪をひらくことの流れだ。

 五輪には神話作用がはたらいてしまっていて、自明性があるとされていて、自然なことだとされている。じっさいには自明性がないのがあり、不自然なところが少なくない。状況と合わないことが表面化している中で無理やりにでもひらこうとしているのがある。神話が通じなくなっているのがある。不自然なところがあるのは、五輪に政治性があるからだ。悪い意味での政治性があるのが五輪だろう。

 参照文献 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき) 熊野純彦(くまのすみひこ)編 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『絶対幸福主義』浅田次郎現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編