五輪と正義論―やるべきことと、それができていないこと

 東京都で夏に五輪をひらく。五輪をひらくことに問題があるととらえたさいに、どういったことが言えるだろうか。

 五輪をひらくことに問題があるかそれとも無いかでは、あるのだとしてみたい。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのがあるためだ。

 何の問題もないのではなくて、問題があるのだとしたさいに、五輪には問題の内因性があるのだとできる。問題の内因性があるとは、かんたんにいうとあることに問題があることを言うものである。

 五輪には問題があるから、五輪を中止する声が言われている。そのさいに、五輪を中止するべきなのにもかかわらずひらこうとしている問題がおきてくる。

 五輪に問題があるのと、中止するべきなのにひらこうとする問題との二つを区別して見てみたい。

 中止するべきなのにひらこうとする問題は正義論にかかわる。これが正義だといったことが言われているのがあるとして、それが現実には行なわれない。そうしたことがしばしばある。

 こうするべきだと言われているのがあるなかで、それが現実には行なわれない。理想論と現実論のあいだに隔たりがおきている。なぜその隔たりがおきるのかを見てみたい。

 へだたりがおきるわけとしては、理想論に近づいて行こうとする動機づけ(incentive)が政権にはない。現実論にとどまりつづけようとする動機づけを政権は強くもつ。

 できるだけ理想論に近づいて行くためには、政権が内発と外発の二つの動機づけを持っていないとならない。その二つを共に持っていないとならないが、政権には内発の動機づけがいちじるしく欠けている。もっぱら外発の動機づけだけをもつ。

 内発の動機づけは、それそのものに興味や関心があるからやるものだ。外発の動機づけは自分たちが利益を得られたり他からほめられたりするからそれをやる。

 国民にとってどのようなことが理想論としてあげられるのかといえば、なにがなんでも五輪をひらくことではないものだろう。すべての国民が幸福になれるようにして、憲法の第二十五条で言われる生存権が等しく満たされるようにして行く。

 政権には理想論と言えるようなものがない。核となる理念がない。ただ現実論によっているだけだから、理想論に向かって少しでも近づいて行こうとする動機づけが無い。しいていえば、自民族中心主義(ethnocentrism)や国家主義(nationalism)や集団主義精神主義新自由主義(neoliberalism)といったものしかない。虚無主義(nihilism)におちいっている。

 憲法の第十三条でいわれているような、すべての国民が個人の私として重んじられるようにして行くのが理想論の一つとしてはいえる。政権にはその理想論に向かって少しでも進んで行こうとする動機づけがない。ただ現実論にとどまりつづけようとしているだけだ。国家の公を肥大化させることをもくろんでいる。そこから五輪についての進め方がおかしくなっているのがある。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『武器としての決断思考』瀧本哲史(たきもとてつふみ)