五輪をとにかくひらけば何とかなるのか―ひらけばすべてが丸くおさまるのか

 とにかく五輪をひらいてしまう。東京都で夏に五輪をひらくことが政権によっておし進められているが、ひらきさえすれば何とかなるのだと政権はしている。

 政権がしているように、五輪をひらいてしまいさえすれば何とかなるのだろうか。ひらきさえすればそれですべてが丸くおさまるのだろうか。

 場合分けをして見てみたい。四つくらいの組みがなりたつのがあり、一つは政権がしているように、五輪をひらきさえすれば何とかなるのがある。

 そのほかのものとしては、五輪をひらいても何とかならない。ひらいても丸くおさまらない。うまく行かない。あとに負の遺産が残る。あとにしこりが残る。

 五輪をひらかないことでは、ひらかないで何とかなるのがある。ひらかないで何とかならないのもある。ひらかなくても何とかならない。また、ひらかないことによってまずいことになる。

 ほんとうは、大丈夫なのであれば五輪をひらくようにするべきだろう。何とかなるのであれば五輪をひらく。五輪はそのようにしてひらくのがふさわしい。大丈夫ではなかったり何とかならなかったりするなかで五輪をひらくのはふさわしくない。

 四つほどの組みがなりたつなかで、政権はそのうちの一つだけしか見ていない。五輪をひらきさえすれば何とかなるとしかしていない。あとの三つをとり落としているのだ。

 政権がとり落としているあとの三つを見てみたさいに、五輪をひらいても何とかならない。大丈夫ではない。そのおそれがある。五輪をひらかないで何とかなるのがある。五輪をひらかないことでそれがよくはたらく。五輪をひらかないことがかえって悪くはたらくこともあるかもしれない。五輪をひらかないようにしたとしても悪くはたらく。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、何をやったらどうなるのかを必ずしも正確には読みづらい。ウイルスの感染が広がっているのがあるから、五輪をひらいたらまちがいなくものごとが丸くおさまるとは言い切れそうにない。五輪をひらきさえすれば大丈夫なのだとは言えないのがある。

 政権がやらなければならないことは、五輪をひらきさえすれば大丈夫なのだとはしないようにすることだろう。五輪をひらくことにおいては、場合分けをしてみたさいに四つくらいの組みがなりたつのだから、その四つをくまなく見るようにするべきだ。そのうちの一つだけを見て、あとの三つをとり落とすのはまずい。とり落としているあとの三つの中に正しいものが含まれているおそれがある。

 いったん五輪をひらいてしまったら、必然性の次元に属することになる。ひらかないようにすることがもうできない。じっさいにひらくまえであれば、可能性の次元に属しているから、ひらかないようにすることができなくはない。

 必然性の次元に属することになれば、もうあとに戻ったり引き返したりすることはできない。ひらかないようにすることはできない。可能性の次元に属しているときであれば、ひらかないようにすることができて、ぎりぎり間に合うかもしれない。必然性の次元に属してしまえば、もう間に合わない。

 政権が言っているように、五輪をひらいてしまいさえすればそれで大丈夫だとするのは、必然性の次元にいたっていることをしめす。必然性の次元にいたったさいに、大丈夫ではなかったり何とかならなかったりしているおそれがある。そうなったとしても、もう必然性の次元に属してしまっているから、あとには戻れず引き返すことができない。可能性の次元に属しているうちに、できるだけいちばん合理性があるあり方をとっておくのが大切だろう。

 参照文献 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『論理的に考えること』山下正男