五輪をひらくことは許容できることか―許容の範囲の内と外

 東京都で夏に五輪をひらく。五輪をひらくことは許容されることなのだろうか。人それぞれによってその見なし方は異なっているのにちがいない。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっている。そのなかであくまでも五輪をひらくことは許容されるとしているのが政権だ。

 もともと五輪をひらくことは必要なもので許容されるものだ。ウイルスの感染が広がっているなかでもその必要性は変わらず許容されるものである。政権はそう見なしている。

 ウイルスの感染が広がっているなかで、五輪をひらくことはいぜんとして許容されるのだろうか。あいかわらずに許容される範囲の中にあるのが五輪をひらくことだと言えるのだろうか。

 政権とは反対に、五輪についてをこのように見なしてみたい。もともと、五輪はひらくべきではない。もともと五輪をひらくことは許容できるものではない。ウイルスの感染が広がっていることで、ますます許容されるものではなくなった。もとから許容できないものが、なおさら許容されず、より強い理由によって(a fortiori)五輪をひらくべきではない。

 たとえウイルスの感染がおきていなくても、そもそもの話として五輪はひらくべきではない。大前提の価値観として、五輪はひらかないほうがよい。そう見なしてみたい。

 人それぞれによっていろいろな見なし方があるから、一方的に決めつけてしまってはまずいが、許容できるかどうかでは、たとえウイルスの感染が起きていないのだとしても、五輪をひらくことは許容できない。

 許容の範囲の内ではなくて外にあるのが五輪をひらくことだ。ウイルスの感染が起きていることで、より許容できる範囲からもっと遠ざかった。許容できる範囲の内にはもとからないものである五輪が、それまでより以上にうんとその範囲の外のところに置かれることになった。

 ウイルスの感染が起きていないときから、許容される範囲の内のど真ん中に五輪をひらくことを置く。政権はそうしているのがあり、ウイルスの感染が起きたあとでもそれは変わっていない。許容される範囲の内のど真ん中に五輪を置きつづけているのが政権だ。

 世界最終戦争でもおきないかぎりは五輪をひらくことは許容される。国際オリンピック委員会(IOC)や日本の政権はそうした大前提の価値観をとっている。この大前提の価値観によると、世界最終戦争のようなよほどのことでもおきないかぎりは、五輪をひらくことがずっと許容される範囲の内のど真ん中に置かれつづけることになってしまう。

 IOC や政権とは反対に、世界最終戦争は抜きにして、五輪じたいが、それそのものが許容の範囲の外にあるものだ。許容できないものが五輪であり、ウイルスの感染が起きたことで、ますます、なおさら、より強い理由によってより許容できないものになった。

 許容できる範囲の内にあったものが、ウイルスの感染が起きたことでその範囲の外に置かれるようになったのではない。はじめから許容できる範囲の外にあったのが、ウイルスの感染が起きたことでよけいにより外のところに置かれることになった。内から外へではなくて、外からより(もっと)外へ、となったのである。

 甘く見るかきびしく見るかでは、甘いものとしては、IOC や政権のように、五輪をひらくことをずっと許容できるものだとしつづけるのがある。許容の範囲の内にずっと置きつづける。ずっと内のものだ。

 少しきびしいものとしては、内から外へがある。五輪をひらくことは許容できるものであり、五輪をひらくべきだが、ウイルスの感染が起きているのがあるので、許容の範囲の外に置く。許容の範囲の内に置くことができなくなった。

 かなりきびしいものとしては、外からより外へがある。きびしいとはいっても、個人の好みがかなり入ってしまっているものだから、客観の見かたではないのはたしかだ。主観のものではあるが、きびしく見れば、ひらくべきではなく許容の範囲の外にあるものである五輪が、ウイルスの感染が起きたことでそのことがよけいにはっきりとした。よけいに外に遠ざかったのである。

 いろいろに見られるのはあるものの、IOC や政権とは反対に、基本として五輪はひらくべきではないものだとしたい。商業や政治が大きく入りこんでいるものである五輪は、純粋な運動の競技の大会とは言えないのがあり、おもて向きの建て前の裏にはいろいろなぎとぎとやどろどろとした私利私欲による思わくやこんたんがうごめいているものだろう。おもて向きの建て前ではなくて、裏のところがあるのをくみ入れると、五輪をひらくことには反対である。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『人を動かす質問力』谷原誠