五輪をひらこうとする中での、日本の政治の危機管理の力のなさ(低さ)

 東京都で五輪をひらいたとしたら、うまく行くのだろうか。まずいことがおきることはないのだろうか。与党である自由民主党の政権は、五輪を責任をもってきちんと行なうことができるのだろうか。

 自民党の政権には頼りなさがある。いっけんすると頼りになりそうではあったとしても、じっさいには自民党の政権には頼りないところがあるのがいなめない。頼りなさとしては、危機管理の能力のなさがある。甘めに言ったとしても、危機管理の力が高くはなくて低い。

 危機管理の能力が政権には欠けているのがあり、それが五輪をひらくさいに悪くはたらく。五輪をひらいたさいにまずいことが起きてくることになるかもしれない。

 情報を活用することが危機管理ではいるが、政権にはこれが欠けている。政権とそれをよしとする権力の奴隷には情報の活用の力が欠けているのが見られる。政権とそのたいこ持ちは、情報の活用の力が磨かれていなくて、それが高められていないために、危機管理の力が高いとは言えそうにない。

 いろいろな情報を広く見て行こうとはせずに、自分たちに都合のよい情報だけを見ている。かたよった情報を見ることによって、肯定性(確証)の認知のゆがみがはたらく。政権とそのたいこ持ちには肯定性の認知のゆがみがはたらいているのがあり、現実を十分にとらえられているとは言えそうにない。現実の全体ではなくて部分しか見えていないものだろう。

 客観ですばやく情報を伝えることが危機管理ではいるが、日本の政治ではこれが欠けている。日本の政治では説明責任(accountability)が果たされることが少ない。もともと日本語は客観ですばやく情報を伝えることに劣っているが、そのことが政治によって悪用されている。

 日本語の欠点である客観ですばやく情報を伝えることができづらいのを、少しでも改めることがいる。欠点を改めようとはせずに、ものごとをうやむやにするために日本語を使ってしまっているために、政治においてもっとも大事なものの一つである言葉が壊されているのがある。客観にすばやくものごとを伝えて行こうとする動機づけが低くて、時間をむだに浪費しやすくなっている。時間をむだに浪費してしまうと危機管理ができづらい。

 一強や一権となっているのが日本の政治ではあり、そのことによって危険性が分散されづらい。賭けごとでいうと与党である自民党の政権に一点張りのようになっていて、すべての賭け金が自民党の政権に投入されているのがある。もっとほかのところに色々と賭け金を分散して権力を分散化させるのでないといざとなったさいにまずい。

 いっけんすると一強や一権で自民党の政権に権力が集まっているのは安定しているかのようではある。いっけんすると安定しているかのようでいて、そこには多様性がないために、不安定になっている。いざとなったさいに多様性のなさから来る不安定さがあらわになり、もろさが出てくる。まちがった方向に向かってつっ走って行こうとすることに歯止めがかかりづらい。一強や一権の政治の権力がおかしくなったさいの抑制がかかりづらい。

 自民党の政権のまわりには、政権のやることにはい(yes)とは言ってもいいえ(no)とは言わないたいこ持ちばかりに囲まれているはずだから、政権がまちがったことをやるさいにそれが増強されてしまいやすい。どんどんつき進めといったことになりやすい。五輪をひらくさいの意思決定でへたをするとまちがった方向に向かってどんどんつき進んでいってしまいかねない。

 政権とそのたいこ持ちには危機管理の能力のなさがあるから、五輪をひらいたとしてそれがうまく行くことの確かな保証があるとは言い切れず、まずいことが起きることになるおそれがある。悲観論だけではなくて楽観論からも見られるのはあるが、必ずしもものごとがうまく運んだりうまくよい方向に転んだりするとはかぎらないので、ものごとが悪い方向に転ぶこともいちおうくみ入れておきたい。車の運転でいうと、願望思考(wishful thinking)によるものである、だろう運転だけではなくて、かもしれない運転もしておきたい。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『フェイクニュースを科学する 拡散するデマ、陰謀論プロパガンダのしくみ』笹原和俊