政権とちがうことを専門家が言ったのは自主研究にすぎないのか―公共性とさまざまな声

 あくまでも自主的な研究だ。自主的な研究を発表したものだ。政権とはちがうことを言った専門家のことを厚労相はそう見なしている。

 東京都で夏に五輪をひらくことをおし進めているのが政権だ。政権といっしょになって五輪につき進むのではなくて、ことによってはそこに危なさを見てとるのが専門家だ。

 政権に助言を与える専門家の集団の長は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が大きく広がれば、五輪をひらくことがむずかしくなると言う。厚労相が言うようにこれはあくまでも自主的な研究にすぎないものなのだろうか。

 公共性の点で見てみられるとすると、政権が言うことは公式のものであり、それだけが正しいことになるのだろうか。政権とはちがうことを言った専門家は、非公式のものだから正しくないことになるのだろうか。

 公共性の点からすると、開かれていて(open)、公によっていて(official)、みんなに共通すること(common)かどうかがある。この三つの点が公共性の要素としてあるから、そこから見てみられる。

 たとえ政権とはちがうことを言ったのだとしても、専門家が言ったことは、開かれているものであり、公に公開されているものであり、みんなに共通することがらについてを言ったものだ。公共性の三つの要素を満たしているのがあり、公共性にそぐうものだといえる。

 せまい形で政権が言ったことだけを公式なもので正しいとするのではなくて、広い形で公共性の点から見るようにしてみたい。政権といっしょになって同じことを言うものだけではなくて、政権とはちがうことを言ったのだとしても、公共性が高いものが中にはある。

 せまい形ではなくて広い形の公共性の点から見てみられるとすると、公共性が高いことを専門家は言ったのがあり、ないがしろにすることはできづらい。専門性の知をもつ専門家が公共性の三つの要素を満たした形で自分で発表したことについてはそれなりに尊重されることがいるものだろう。

 五輪が公共性をもつのよりも、ウイルスの感染についてのほうがより公共性が高い。五輪は一部の人にとくに利益をもたらすものであり、すべての人に等しく利益があるものではない。ウイルスの感染は五輪よりももっと公共性が高いことだから、公共性の点からすると五輪よりもウイルスの感染についてにより力が入れられて優先されることがいるものだろう。

 たった一つの声だけではなくていろいろな複数の声がいるのが公共性だろう。哲学者のハンナ・アレント氏はいくつものちがった声が公共性にはいるのだと言う。政権がこれが公式だとするたった一つの声だけが言われて、それに反するものはまちがっているとか非公式なものにすぎないとされるのだと公共性が損なわれてしまう。かくあるべきの当為(sollen)であるよりはかくあるの実在(sein)のさまざまな複数の声によるのが公共性だろう。

 たとえ政権が公式に言ったことであったとしてもそれが最終の結論だとは言えないから、それ以外にも専門家が言うことを含めて色々な多様な仮説が示されることがあったらよい。政権が公式に言っていることはいろいろにある仮説のうちの一つにすぎないものだろう。政権は権威をもつからこそいろいろに批判されるべきである。

 参照文献 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『考える技術』大前研一 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也