五輪とそのほかのことのどちらをより重んじるべきか

 東京都で夏にひらかれることになっている五輪がある。五輪とそのほかのことについてを比べてみたらどのようなことが言えるだろうか。修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論によって見てみたい。

 なぜ五輪は許されるのに、それ以外のほかのことは禁じられているのか。いろいろな人によってそう言われているのがある。五輪とそのほかのことを比べてみられるとすると、五輪は許容される範囲の中に入れられている。そのほかのことは許容される範囲の外になっていて禁じられていることが少なくない。

 五輪は大きなもよおしだ。国をあげて行なわれる。大きさからすると、五輪のような大きなことが許されるのであれば、それよりも小さいことが許されてもよいはずだ。五輪ほどの大きなことが許されていながら、そのほかのそれよりもより小さいことが許されないのはおかしい。

 大きさでいうと、大が許されるのであれば、中や小が許されてよい。中や小が許されていないのにもかかわらず、大だけが許されている。そのことを、修辞学で言われるなおさら論証によって見てみるとこう言えるだろう。大が許されるのであれば、中や小はなおさら許されるべきだ。それの逆にあたる対偶としては、中や小が許されないのであれば、大はなおさら許されない。より強い理由(a fortiori)によってそう言えるだろう。

 ほかのものとは国の力の入れ方がちがうのが五輪だ。国が大きな力をかけているのが五輪だから、ほかのものとはちがいがある。国にとっての必要性が高いのが五輪だが、国民にとっての必要性とはまたちがう。国と国民とのあいだにずれがおきている。

 国民にとっては五輪はそこまで必要性は高いものだとは言えそうにない。国民にとって必要性が高いものは、人それぞれによってちがっているが、五輪のほかにもっと国民にとって必要性が高いものはいろいろにある。客観として見て五輪が国民にとって必要性が高いとは言いがたい。

 ほかのものと比べてみて、五輪が国民にとってより必要性が高いものだとは言えそうにない。国民にとって五輪よりもほかにいろいろと必要性が高いものがあるから、五輪よりもそちらのほうをより優先させたほうがよい。ほかのものよりも五輪を優先させてしまうと、国民にとって必要性がそれほど高くはないものを優先させてしまう。そのおそれがおきてくる。

 なににたいして国民が必要性を見いだしているのかは人それぞれによってちがう。その中でほかのものよりも五輪をより優先させてしまうと、国民にとって必要性が高いものがなおざりにされてしまう。ほかのものをなおざりにしてまでも五輪をひらいたとしても、五輪が国民にとって必要性が高いことだとは言えないから、(国民ではなくて)国にとっての必要性しか満たしづらい。

 下からのものと上からのものがあるとして、日本の政治では下からのものをなおざりにしやすい。上から下に一方的に押しつけることが多い。それが見てとれるのが五輪をひらくことの流れにはある。憲法で言われている国民主権主義からすると、下からの人々のいろいろな必要性が重んじられることがいる。上から下に一方的に押しつけるのではないことがいる。

 ほかのものと比べる形で五輪についてを見てみると、国民にとって五輪がより必要性が高いものだとは言い切れそうにない。ほかのものをさしおいてまでも五輪をひらくことがよいことだとは言い切れそうにない。そのことをゲシュタルト心理学の図がら(figure)と地づら(ground)の二つによって見てみられるとすると、五輪は図がらとされがちだが、地づらだとも言える。

 ほかのものよりもより重んじるべきものだとするのであれば五輪は図がらに当たる。図がらと地づらは固定化せずに反転させられるので、五輪を地づらとしてそのほかのことを図がらだとできる。五輪は地づらに当たるものであり、ほかのもののほうが図がらに当たる。ほかのもののほうがより重んじられるべきだ。そう見なすことがなりたつ。ほかのものがあって、それらがなりたってはじめて五輪をひらくことができるのだから、五輪よりもほかのもののほうがより大事である。

 ほかのものが駄目になってしまえば五輪もまたひらけない。ほかのものを駄目にしてまでも五輪をひらくことはないだろう。ほかのものがいろいろにあって、それらがなりたつようであってはじめて、五輪をひらくことがやっと許される。五輪についてを脱構築(deconstruction)してみるとそう見なすことがなりたつ。

 いろいろとほかのことが制約をこうむっているのにもかかわらず、そのなかで五輪だけをひらいてもしかたがない。ほかのものの制約が解けて自由になってはじめて五輪をひらくことがやっと許される。ほかのもののほうをより重んじるのであればそう見なすことがなりたつ。ほかのものをいろいろに制約しておきながら、五輪だけを制約を抜きにした形でやったとしても、そのことにどのような意味あいがあるのかは定かではない。

 ほかのものに制約がかかっているのをできるだけ解けるように力を入れて行き、少しでも自由になるようにして行く。五輪に力を入れるよりも、ほかのものの制約が解けたほうがよりありがたい。少しでも自由になったほうがよりありがたい。国民のみながひとしく自由になるように自由の幅(capability)を広げて行きたいものである。

 ほかのものに制約がかかっていて不自由ななかで、五輪だけひらいたとしても、ありがたいことだとは言い切れそうにない。五輪をひらいたとしてもそのほかのことの制約が解けるわけではないから、その点でのありがたみは特にない。そのほかのことにさしさわりがおきないのであればともかくとして、さしさわりがおきるようなのであれば、それをおしてまでも五輪をひらくことは、国民にとってはありがた迷惑となることかもしれない。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)