五輪はきれいなもので、五輪の反対のデモは汚いものだったのか―汚さの度合い

 東京五輪の反対デモの参加者は、お金をもらっていた。NHK のテレビ番組ではそう言われていた。字幕でそう言われていたのが、まちがっていたとして、NHK は謝罪した。このことについてをどのように見なせるだろうか。

 五輪に反対するデモに参加することで、参加者がその見返りにお金をもらっていたとするのなら、よくないことだ。そう言われているのがあるけど、それについて、デモと五輪のそれぞれの汚さの度合いを見てみたい。

 比較してみると、かりにデモが汚いものであったとしても、それより以上に汚いのが五輪だろう。デモにおいてよくないところがあったのだとしても、それよりもより強い理由(a fortiori)によって五輪はよくなかった。より汚いものだったのが五輪だ。汚さの度合いからするとそう言える。

 五輪の反対のデモは、五輪とは対立するものだ。対立がある中で、五輪に反対するさいに、いろいろな手段が用いられることになる。あまりよくない手段だとされるのが、お金をやり取りすることだ。お金をやり取りするのがよくない手段なのだとしても、五輪に反対の立ち場より以上に、五輪ではその手段が用いられた。五輪は商業が関わるのが大きい。政治性が高いもよおしだ。

 どのような動機づけ(motivation)によって、五輪や、五輪の反対のデモが行なわれたのだろうか。手段としてお金のやり取りをするのは、内発ではなくて、外発の動機づけだ。外発の動機づけは、五輪に反対するのよりも、五輪をよしとするほうがより強い。お金をもうけたり、他からほめられたり注目されたりするなどのために、五輪に参加して、五輪をよしとする。いろいろなもくろみによって五輪は行なわれる。純粋に、やりたいからやるといった内発の動機づけによるのではない。不純な動機づけによって行なわれるもよおしだ。

 お金のやり取りがあったのかどうかは、手段によることだけど、手段のところを見るだけではなくて、争点を見るべきだろう。対立があるのであれば、そこに争点があるはずだから、そこを見るようにして行く。よくない手段がとられていたとして、手段のところだけを見るのだと、争点を見ないことになってしまう。

 よくないこんたんによって、五輪の反対のデモが行なわれたとするのは、動機論のそんたくによるものだ。動機論から見てみるとすると、むしろ五輪をよしとするほうが、よくないこんたんによっていたと言える。五輪に反対するデモで、お金のやり取りがあったのだとすれば、動機論からするとあまりよいことではないが、それを言うのであれば、五輪をよしとするほうが、巨大なお金のやり取りがあったのだから、動機論からいってまずいものだ。

 なぜ五輪に反対のデモがあったのかと言えば、それは五輪をよしとするのだけではなくて、いろいろな声があったからだろう。五輪をよしとするだけの、純粋な動機づけだけによるあり方には無理があった。純粋な動機づけによってつっ走って行こうとすることに強引さがあった。五輪をよしとするべきだとする、かくあるべきの当為(sollen)だけではなくて、かくあるの実在(sein)のところにある、いろいろなちがいをもつ声をすくい上げないとならなかった。

 五輪はよいものだったのだとは完ぺきには基礎づけたりしたて上げたりできづらい。五輪の反対のデモは悪いものだったのだとは完ぺきには基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 五輪はまさしく完ぺきによいものだったのだとは正当化できないのがあり、五輪にはいろいろによくないところがある。いろいろにあるよくないところをとり上げて行くためにも、五輪に反対のデモは許容されるべきだろう。

 反対のデモをやるのは、一〇〇点の満点と言えるほどによいことではないけど、それをやることで、五輪は一〇〇点の満点なのだとするいんちきさを、九〇点や八〇点や七〇点といったようにけずり落とせる。どんどん点数を下にけずり落としていったほうが、五輪のじっさいの姿に近づいて行く。上げ底になっていて点数がかさ増しされているのを、下に引き下げて行くことによって、五輪のじっさいの姿に少しでも近づけて行かないとならない。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『学ぶ意欲の心理学』市川伸一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし)