五輪についてのテレビ番組と、製造者の責任―情報の操作(disinformation)のうたがい

 二〇二一年にひらかれた東京五輪についてのテレビ番組がつくられた。番組の中で、五輪の反対のデモに参加していたとされる人が出てきて、その人がデモに参加したことでその見返りとしてお金を受けとった。番組ではそう言われていて、字幕で説明がなされた。その字幕の内容が不適切だったとして、テレビ番組を作って流した NHK は謝罪した。

 東京五輪についてのテレビ番組の中で、五輪に反対のデモに参加した人が見返りにお金を受けとっていたとされているのを、どのように見なせるだろうか。番組では、デモに参加した人がほんとうにお金を受けとったのかどうかがはっきりとはされていなくてぼかされていた。はっきりと断定されていない。とことんまでつき詰められていない。

 客観の実証ではなくて、雰囲気や空気によって、五輪についてのテレビ番組が作られたと言えそうだ。五輪に反対のデモに参加したとかしなかったとかとされる人が、その見返りにお金を受けとったとか受けとらなかったとかといったことがあり、そういった人がじっさいに現実に実在するとかしないとかとされている。一か〇かや白か黒かではなくて、その中間の灰色だ。あいまいもことしたところがある。虚と実のあいだだ。

 五輪のテレビ番組の中では、表象(representation)が生成されたと言える。ほんとうにじっさいに五輪の反対のデモに参加して見返りにお金を受けとった人が、直接の現前(presentation)としてまちがいなくいるとは言えそうにない。もしもそういった人がじっさいにいたのであれば、そこをもっと深く掘り下げて行き、どこのどんな人で、どういった団体がもよおした反対のデモだったのかを明らかにしなければならない。そこを明らかにしないと、なぜテレビ番組の中で、デモに参加してお金を受けとったとされる人を出演させたのかの理由が定かではない。

 表象が生成されたことによって、あるようなないようなといったことになり、じっさいにそういった人がいたようないなかったようなといったようになる。確かにあるとか、確かにいるとは言い切れなくても、表象を生成することはできてしまう。それらしいことがあったかもしれないとか、それらしい人がいたかもしれないといった形にすれば表象を生成することができる。

 テレビ番組を作った製作者は、表象を生成したと言えるのがあるから、テレビ番組を作ったことの製造者としての責任と、表象を生成した製造者としての責任を負う。番組を流した NHK にも広い意味での製造者としての責任がある。

 たまたまぐうぜんにテレビ番組の中にまちがいがあったとか、たまたまぐうぜんに表象を生成してしまったのではないだろう。わざとねらってテレビ番組を作り、表象を生成したうたがいが強い。あらかじめねらいがあったのがあり、それにそって番組が作られて、表象が生成された。

 五輪の番組の中には、作為性や意図性や政治性が多くふくまれていた。それらが多く含まれた形で番組が作られていった。それによって、番組そのものが表象となったのがあり、その表象が批判されないとならなくなった。

 表象の製造者としての責任を果たすこと(説明責任を果たすこと)が、番組の製作者と、とくに NHK には強く求められる。NHK は、公共の電波を使っていて公共性をになっているし、視聴料をとっているのだから、番組の製造者として負っている責任は小さくない。

 参照文献 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一