五輪のもつ二面性―よいところだけではなくて悪いところも色々にある

 東京都で夏に五輪がひらかれはじめている。それに乗っかるかたちで、五輪を応援したり楽しんだりする。そうすることが大事なことなのだろうか。

 五輪がひらかれているなかで、それに乗っかるようにするのは、かならずしも悪いことではない。乗っかったら悪いわけではないが、乗っかるか乗っからないかでいえば、どちらかといえば(乗っかるのではなくて)乗っからないことの重要性が重みを増している。

 せっかくひらかれているのだから、五輪に乗っかるようにして、それを応援したり楽しんだりする。それは五輪が持っている枠組み(framework)に合わせることだ。枠組みを合わせてもよいわけだけど、それを合わせないようにしてずらす。

 枠組みを合わせるのだと、五輪の表象(representation)をそのまま受けとることになる。五輪の表象は、五輪そのもの(presentation)だとは言えないものである。

 五輪の表象とはちがって、五輪そのものにはかなりの闇や汚れがある。五輪がひらかれている中では、五輪そのものがもつ闇や汚れはあまりとり上げられない。闇や汚れをとり上げてしまうと五輪に水をさしてしまう。水をさしてしまうと興がさめてしまうから、光のところだけを強調する。それが五輪の表象である。

 表象においては五輪がもつ光のところが強調されて、闇や汚れは隠ぺいされる。日本の政権をふくめて五輪の関係者は嘘をたくさんついているが、それは五輪の表象が関わっているからだ。表象であることによって嘘がつかれる。

 ことわざでは、嘘はあとではげる(ばれる)と言われる。ついた嘘がはげることになっているのが五輪だろう。表象とそれそのものとのあいだにずれがあることが明らかになる。表象による枠組みの中に色々なおかしさがあることがあらわになる。

 一面としてではとらえ切れないのが五輪だろう。一面として、五輪がよいものであり、それを応援したり楽しんだりするだけでよしとするわけには行きづらい。少なくとも二面があり、よいところだけではなくて悪いところがある。悪いところがあることを無視することはできづらい。

 一面としては五輪はよいものなのがあるが、その光のところだけで押し通すのが通じづらくなっている。一面のよいところだけで強引におし通すことができづらい。それとは別の一面として悪いところがあるのはいなめないのがあり、そこを切り捨てて捨象することはできないのがある。

 それそのものであるよりは、あくまでも表象であり、枠組みとしてあるのが五輪の光のところだ。その光のところに乗っかって合わせるようにして、応援したり楽しんだりするのは、必ずしも悪いことではない。

 欲をいえば、応援したり楽しんだりするだけに終わらないようにして、表象の枠組みと、それそのものとがずれてしまっているのを見て行く。枠組みに合わせるだけではなくて枠組みをずらして行く。そうするとちがったところが見えてくる。虚偽意識と化しているところがあるのが五輪であり、現実とはずれているのが見えてくるものだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)