五輪とテレビと心脳の操作―快と不快

 人流は減っている。五輪は中止しない。テレビで五輪を見てほしい。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っている。

 首相がいっているように、五輪を中止することはいらないのだろうか。テレビで五輪を心おきなく見ていることができるのだろうか。

 テレビと五輪はお互いに枠組み(framework)が合っている。そのことによってお互いに共犯の関係にある。

 テレビを見るさいには、あまりテレビ番組の内容を批判としてはとり上げづらい。テレビ番組を見るさいには、受動で見させられることになりやすい。見る人の心脳が操作されることがわりあいおきやすい。

 日常がさしさわりなく営まれているといった日常性や正常性の枠組みをもつのがテレビだ。保守性をもっているのがテレビであり、それと五輪とは親和性がある。非日常の祭典のしかけなのが五輪だが、そのいっぽうでテレビの日常性の枠組みが強くはたらく。テレビのもつ日常性の枠組みは強いので、そちらが勝ることになる。

 編集されて内容が取捨選択されているのがテレビ番組だから、枠組みに当てはまらないものは切り捨てられることになる。枠組みに当てはまらないで切り捨てられるものは、テレビの画面には映し出されない。その映し出されないところに大事なものがあることは少なくない。

 日常性や正常性を強めてしまうところがあるのがテレビのもつ枠組みにはある。正常性の認知のゆがみが大きくなる。五輪がテレビで放送されることによって、正常性の認知のゆがみが強まるおそれがある。正常ではなくなっているのにもかかわらず五輪が行なわれているのであれば、矛盾があることになるが、矛盾は認知の不協和を生む。認知の不協和があると不快だから、快をもたらすためにはあたかも矛盾がないかのようにすることになる。

 五輪をテレビで見るのは快である。不快であるのならテレビで五輪を見ることはないものだろう。わざわざ不快になるためにテレビを見ることは行なわれない。快を得るためにテレビで五輪を見る。せっかくテレビ番組を見るのであれば、そこから得られる効用を少しでも増やそうとする動機づけ(incentive)がはたらく。

 快を得るためには安全地帯(stereotype)をこわさないようにして、そこの中にとどまらないとならない。安全地帯の外に出ないようにすることがいる。安全地帯の中で行なわれるのが五輪だが、それは虚構のものであるのにすぎない。ほんとうの安全さではない。じっさいの現実は危険性がおきている。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広まっているのがある。

 安全地帯は安定化した条件反射である。生理学者のイワン・パブロフ氏による。安定した枠組みが形づくられることになる。その外に出ようとしないかぎりはその中に安住していられる。枠組みに合うものはとり入れられて、合わないものは外に切り捨てられる。認知のゆがみがはたらく。

 テレビのもつ枠組みは安全地帯の中にとどまりつづけようとする力が強い。その外に出て行こうとしづらい。テレビがもつ枠組みには合わないものは、テレビではとり上げられず、テレビ番組で放送されることはあまりない。

 いろいろな楽しい番組や益になる情報が放送されているのがテレビであり、それはテレビがもつプラスの順機能(function)だ。よいところがテレビにはあるのはたしかだが、テレビがもつ枠組みは娯楽の情報にかたよりやすい。それに合うのが五輪である。そこからマイナスの逆機能(dysfunction)がはたらいてしまう。逆機能としては問題解決情報が放送されない。娯楽の情報のほうが快をもたらしやすいからそちらが強く好まれる。

 テレビがもつ逆機能が悪くはたらくことによって、ゆがみやひずみがおきることになる。そのゆがみやひずみが大きくわざわいすることによって、日本の社会が大きな害や損をこうむる。ウイルスの感染が広がっている中ではそれがおきるおそれがある。そこに気をつけたいものである。

 参照文献 『心脳コントロール社会』小森陽一 『情報政治学講義』高瀬淳一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『知の編集術』松岡正剛(せいごう) 『自分でできる情報探索』藤田節子 『砂漠の思想』安部公房