五輪やパラリンピックの開催と正当化や合理化

 五輪がひらかれて、つぎにはパラリンピックがひらかれる。東京都で夏に五輪がひらかれたのと、パラリンピックがひらかれようとしていることを正当化することはできるのだろうか。

 五輪をひらいたのはよいことだったとするのや、パラリンピックをひらくのはよいことだとするのがある。国際オリンピック委員会(IOC)の会長やパラリンピックの組織の会長などが、五輪やパラリンピックをよしとするのは、当たり前のことであるのにすぎない。

 五輪の関係者が五輪やパラリンピックをよしとするのは、たんに当事者が自分たちのやることを正当化や合理化するのにすぎないものだ。それは当然のことであるのにすぎない。

 五輪やパラリンピックにたずさわる人は、五輪やパラリンピックをよしとすることを含意している。五輪やパラリンピックをひらくことを正当化や合理化することになる。

 人間は自分がやったことを正当化や合理化するのがある。そのことをくみ入れると、いくら五輪にたずさわる人が五輪やパラリンピックをひらくことを正当化や合理化したところで、それはたんに人間の性格があらわれ出ているのにすぎない。

 正当化や合理化が行きすぎると教義(dogma、assumption)や教条と化す。教義や教条にはならないようにして、修正をきかせて行く。それが説明責任(accountability)を果たすことである。

 人間は自分がやったことを正当化や合理化しがちなのがあるから、自分の信念をどんどん強めて行く。信念を補強しつづけて行く。自分がもつ認知のゆがみがどんどん大きくなって行く。

 まったく中立の点からものを言うのではなくて、ゆがみが入った形でものを言う。五輪にじかにたずさわる人は、五輪に思い入れをもっているから、ゆがみが入った形でものを言うことになる。そのゆがみをとり除かないと中立の形にはならない。

 五輪をひらいたことをよしとしたり、パラリンピックをひらくことをよしとしたりすることがたった一つだけ正義であるのではない。正当化や合理化を強めるのであれば、教義や教条と化すから、五輪をひらくのやパラリンピックをひらくのがたった一つだけの正義となる。それだと原理主義のようになるから説明責任が果たされない。

 もともと人間は自分がやったことを正当化や合理化しがちなのだから、正当化や合理化することそのものにはそれほど意味はない。むしろそれとは逆に正当化や合理化することを弱めることのほうがより大事だ。信念を補強することはたやすいが、それを修正することによってはじめて説明責任を果たせるようになる。

 五輪はひらかれるべきだったとか、パラリンピックはひらかれるべきだとするのは、何々であるべきの当為(sollen)だ。それらがたった一つだけの正義だとするのは、見かたが一面のものになっている。もっとちがういろいろな面を見て行く。何々であるの実在(sein)のところをじっくりと見て行く。

 実在のところを見て行くようにすれば、たった一つだけではなくていろいろないくつものちがった視点がなりたつ。たった一つだけではなくていくつものちがった理屈がなりたつものだろう。いろいろな遠近法(perspective)がとれる。完ぺきに正しいといったことではなくて、限定された正当性や合理性にならざるをえない。

 参照文献 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)