五輪とさく乱する人―人間は本能がこわれている

 なぜ東京都で夏に五輪をひらこうとしているのだろうか。そこに見てとれるのは、人間がさく乱していることだ。人間は本能がこわれている。

 さく乱する人(homo demens)をいっているのがエドガール・モラン氏だ。人間はその本質としてさく乱しているのである。倒錯している。生の自然の中におさまらずそこから逸脱していてはみ出している。過剰さをもつ。過剰な活力が悪くはたらくものが戦争だ。

 もしも犬や猫や鳥のような野生動物であれば、東京都で夏に五輪をひらこうとはしないだろう。野生動物は本能にしたがって生きている。

 人間は理性や合理によってものごとをなすことができるが、そのいっぽうでさく乱しているのもある。野生動物とはちがって本能がこわれているので、幻想にすがって生きることになる。

 人間がさく乱しているのがあらわれ出ているのが五輪だろう。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのにもかかわらず五輪をひらこうとしているところにそれがよく見てとれる。

 五輪で選手が運動の競技を行なって、見る人がその活躍に感動する。感動がおきるのはよいことではあるものの、さく乱していることがあらわれ出ているのもある。つくられたもよおしなのが五輪だから、そこから感動がおきるのだとしても、幻想によるところが少なくない。幻想が感動をもたらしている。

 国ごとに参加するのが五輪だが、国は共同幻想によるものだ。人間は本能がこわれているので、幻想にすがることになり、そこで持ち出されるのが国である。

 国の力をかけてひらかれるのが五輪だ。日本の国の力を外に示すために五輪をひらく。国の力をしめす機会や場として五輪がつかわれる。国の力とは幻想によるものである。虚構であるのが国であり、その国の力を外に示そうとするところに、人間がさく乱しているありさまが示されている。国のほこりや名誉といった虚栄心にとりつかれているのだ。

 金銀銅のメダルが上位の選手には与えられて、国がいくつメダルをとったかが争われる。金銀銅のメダルに価値があるとするのは幻想によるものだ。メダルの数を争うのは、量によって価値をはかってしまっている。質がないがしろにされている。質よりも量といったことで、理性の退廃(decadence)がおきている。

 いろいろなまぼろしの虚構にまみれているのが五輪であり、現実から離れているのがある。いろいろなまぼろしの虚構によってつくり上げられているのが五輪だから、それらの虚構を一つひとつとり除いて行けば、五輪はなりたたなくなる。虚構を抜きにしてはなりたたない。

 人間がさく乱しているのや本能がこわれているのに乗じる形で五輪をひらいたとしてもあまり意味があるとは言えそうにない。人間がさく乱しているのや本能が壊れていることに目を向けるようにして、そこを見つめ直すようにしたい。本能がこわれていない野生動物のほうが人間よりもまだましなところがある。

 本能にしたがって生きている野生動物のほうが部分的にはまだかしこいところがあるから、人間を絶対化しないようにして、人間中心主義をいましめるようにして行く。人間による営みであるからこそそこにおろかさが映し出されることになるのが五輪にはあると言えそうだ。さく乱したありさまが映し出されているのがある。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『唯幻論物語』岸田秀 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ