ロシアとウクライナの戦争と、ロシアの大統領の狂い―狂気によって戦争がおきたのか

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争を引きおこしたのがロシアだ。ロシアが悪いのがあり、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は狂っているのにちがいない。そう言われているのがある。

 ウクライナとのあいだに戦争を引きおこしたプーチン大統領は狂っていると言えるのだろうか。狂っているから戦争をおこしたのだろうか。

 プーチン大統領が狂っていて、そのほかの国の人たちは狂っていない。プーチン大統領だけが狂っていて、そのほかの国の人たちは狂っていない。そのように言うことはできないところがある。

 狂っている人がいて、狂っていない人がいる。狂っている人と、狂っていない人とのあいだに引かれる線は、必ずしもしっかりと引くことはできづらい。

 狂っているものとそうではないものとのあいだに引かれる線は、人為や人工のものだから、構築性がある。構築性があるから、脱構築(deconstruction)することがなりたつ。何が狂っていて、何がまともであるのかを決めるものさしは絶対のものとは言えず、時代や場所によって変わるところがある。狂っているのかどうかを決めるものさしは完全に不変で固定化されたものではない。

 人間は基本としてみんな狂っていて、さく乱している。さく乱する人(homo demens)だ。エドガール・モラン氏による。多かれ少なかれ人間はみんな狂っているのだ。ていどのちがいによる。

 人間のなにが狂っているのかと言えば、一つには、本能に狂いがあると言える。野生の動物のように本能にしたがって生きているのではないのが人間だ。本能が狂っていて壊れているので、いろいろな文化を生み出す。観念に頼ることになる。

 戦争がおきるのは、人間が狂っていることのゆえんである。プーチン大統領が狂っているから戦争がおきたといえるよりは、人間が狂っているから戦争がおきることになるのがある。

 ロシアをよしとする国家主義による枠組み(framework)をもっているのがプーチン大統領だろう。その枠組みからすると、戦争を引きおこしたことは、まともなことであり、正気なことに当たる。狂っているのではない。そう言うことができるかもしれない。

 戦争をおこすことを、狂っているとして、狂気として片づけることはできるけど、そうではない見なし方もまたなりたつ。あることを狂っているとか狂気だとするのは、枠組みによるものだ。ちがう枠組みからすれば、同じことであってもまともだとか正気だとかとなる。枠組みがちがえば、なにが常識でなにが非常識なのかが変わるから、まともさと狂いがひっくり返る。

 狂人がもっている枠組みからすれば、その枠組みが正しいことになる。狂人がもっている枠組みが、まちがいなく絶対にまちがっているとは言い切れそうにない。正気な人がもっている枠組みが、まちがいなく絶対に安全なものだとは言い切れそうにない。狂気だからこそ安全であり、正気だからこそ危険だといったこともあるだろう。

 野蛮なのは狂気であり、啓蒙は正気だ。そう言えるのがあるとして、野蛮や狂気ではなくて、啓蒙によるものが、その反対の野蛮に転化する。啓蒙の弁証法ではそれがおきる。テオドール・アドルノ氏とマックス・ホルクハイマー氏による。啓蒙が野蛮に転化や退化することの危なさを見て行きたい。

 集団主義によって、集団が一つの枠組みによることになり、集団が狂気におちいる。そうなると危なさがおきてくる。集団が狂気におちいると、集団が悪く酔うことになり、狂気と正気がひっくり返ってしまう。集団の中では、狂気であることが正気になり、正気であることが狂気になる。

 どのようなときに人間は狂気から正気にもどれて、悪い酔いから覚めることができるのだろうか。それができるのは、自分がほんとうに死ぬことになるときに限られる。自分の命がほんとうに危なくなって、死の危機がおきたときになってはじめて、ようやく理性の反省ができるようになる。思想家のトマス・ホッブズ氏はそう言っている。

 ほんとうに自分が死ぬことになり、死の危機がせまるくらいでなければ、人間はなかなか理性の反省ができづらい。いついかなるときにも、たやすく理性の反省ができるのではない。そこに人間のおろかさがある。ある限られた条件のときでないと、理性の反省ができない。それ以外のふつうのときには、自己欺まんの自尊心(vain glory)や虚栄心にかられてつき進んでいってしまう。

 まさに自己欺まんの自尊心や虚栄心にかられてつき進んでいっているさいちゅうなのがプーチン大統領だろう。これはプーチン大統領にかぎったことではなくて、ひとしくどの人にも当てはまることだ。

 プーチン大統領だけが狂っているとは言えないのがあり、狂っているのかどうかはていどのちがいにすぎない。例外として狂った人がいるといえるよりは、原則として人は狂っているのがあり、むしろ例外として正気な人が少数いる。例外としてまともな人が少数だけいる。常態として人間は狂っている。ある限られた条件のときにだけ、人間は正気に戻れてまともになれるのかもしれない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『唯幻論物語』岸田秀(しゅう) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『法哲学入門』長尾龍一 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳