ロシアとウクライナの戦争と、近代性―後期の近代(late modernity)の時代における、大きな物語としての国の成り立ちづらさ

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争を行なっている、ロシアとウクライナについてをどのように見なせるだろうか。

 どことどこの国どうしが戦争を行なっているのかといえば、それはロシアとウクライナがやっている。そのロシアとウクライナについてを改めて見てみれば、国としての正体のわからなさがある。正体の不明さがある。

 いっけんすると、一番わかりきっていて、いちばん当たり前だと言えそうなのが国だ。そうでありながらも、改めて見ると、一番わかっていそうなものが、一番よくわからない。いちばん当たり前で身近なものが、いちばん不たしかさを抱えている。たんに、わかったつもりになっているだけであり、わかっているのではない。

 ロシアとはいったい何なのか。ウクライナとはいったい何なのか。それが何なのかを正確にはっきりと答えられる人はいないかもしれない。

 ロシアやウクライナは国の名前であり、記号表現(signifier)だ。記号表現がさし示す記号内容(signified)があり、その記号内容のところがわからなくなっている。記号表現はあるものの、それにたいする記号内容が定まっていない。記号内容を欠いた記号表現だけが流通している。

 食べものでいえば、ロシアやウクライナなどの国は、ドーナツの穴や玉ねぎに当てはめられる。ドーナツの穴のように、実体が無いものなのが国だ。ドーナツの穴は、あると言えばあるが、それを食べることはできない。

 玉ねぎは、皮をどんどんむいて行くと、何も無くなってしまう。それと同じように、国もそれが何なのかを見て行くと、何も無くなってしまう。国とはいったい何なのかをどんどん見て行くと、玉ねぎの皮をむいて行くようなことになる。

 ロシアやウクライナだけではなくて、日本でいえば、日本の国とは何なのかや、日本人とは何なのかがある。日本の国や日本人とは何なのかは、改めて見るとよくわからない。正体がわからないのがあり、正体が不明だ。

 それがそれだからそれなのだといったところがあるのが国だろう。自己循環論法になっている。ロシアとは何かやウクライナとは何かは、自己循環論法になっているのがあり、ロシアをロシア自身によっては説明しづらく、ウクライナウクライナ自身によっては説明しづらい。

 戦争を行なっているのがロシアとウクライナだが、自己幻想をもつロシアと、自己幻想をもつウクライナが、対幻想として戦い合っている。そう見なすことができるかもしれない。ロシアとウクライナは、どちらも共に、自分たちのことが必ずしもよくわかっていない。自分たちで自分たちのことがよくわかっていないままに、対幻想として国どうしが戦い合っている。

 ロシアではウラジーミル・プーチン大統領が国の権力をにぎっているが、プーチン大統領であったとしても、国の全体をくまなくとらえているとは言えそうにない。国の全体のすみからすみまでは、かなり広いのがあるから、つかみ切れない。あたかもプーチン大統領がロシアのすべてを代表しているかのように見なすのはまちがいだろう。せいぜいがロシアの国の部分しか代表できていないのがプーチン大統領だ。

 国の権力者であったとしても、その国の全体を代表しているとは言えないから、脱全体化されなければならない。一人の人間が、その国の全体を代表することはできない。一人の人間が、その国のすべてをすみからすみまでくまなく知ることはできない。その国を丸ごとつかまえ切れるものではないから、その国のことをわかったつもりになることはできるが、真にわかることはできづらい。

 全体は非真実であると言っているのが、哲学者のテオドール・アドルノだ。国の全体は非真実であり、せいぜいが国の部分を知ることができるのにとどまる。国の部分を代表できるのにかぎられる。

 たとえプーチン大統領であっても、ロシアの国のことをわかったつもりにはなれるだろうけど、真にわかることはできないものだろう。ロシアの国のことを真にわかることは、誰にもできないことであり、ロシアの国のことを完全に知ることはできず、とらえ切ることはできない。

 世界の全体が、人間の体であるとすると、一つの国は、頭や胸といった部分に当たる。頭や胸は、ほかの体の部分とつながり合っていて、完全に独立していない。世界の中における国も、完全に独立しているとは言えず、ほかの国とつながり合っていて、境い目がはっきりしづらい。

 いちおう国境の線引きは引かれているけど、その線が実線であるよりは破線になっている。線が引かれていることの人工性や人為性があり、構築性がある。分節化されてはいても、その分節のしかたには必然性はなく、偶然性によっている。

 国は有るのだといったことで、戦争がおきてしまっているが、改めて見てみると、国は無い。食べもので言えば、ドーナツの穴のようなものとして国があるとは言えるが、無いものとして有るといったものだ。玉ねぎの皮のように、むいて行くとあとには何も無くなってしまう。

 哲学者のソクラテスが言ったように、無知の知によって見ることがいるのが国だろう。いちばん知っているものだとされがちなのが国だけど、改めて見てみると、無知であることがわかってくる。国について、無知であることを知ることがいる。国についてをわかったつもりになってしまいがちだけど、改めて見るとよくわからないところが多い。

 哲学者のルネ・デカルトがやったように、すべてを疑うようにしてみられるとすれば、国があると信じているのを疑うことがなりたつ。国があると信じるのは、それが足場になることだけど、その足場を疑うようにする。

 デカルトがやったとされるように、ぜんぶを疑うことはなかなかできないことではあるが、足場となっている国のことを疑うようにしてみる。そうしてみると、ロシアのことやウクライナのことや日本のことがよくわかっていないことがわかってくる。わかったつもりになっていることがわかってくる。

 わかったつもりになっている状態で、ロシアとウクライナのあいだで戦争が行なわれているところがあり、そこから危険性がおきているといった面がある。わかったつもりになっている状態を改めるようにしたり、その状態におちいっていることを自覚するようにしたりすることがいる。

 わかったつもりになっているが、本当はよくわかっていないのがあり、足場となっている国が、崩れてしまっている。足場となっている国が信じられず、不信にならざるをえない。足場となっている国が、成り立たなくなっている。足場が足場として成り立たなくなっているのがあり、自分がよって立つことができるよう足場が、改めて見てみると無い。

 自分が有るとしているものが無いことによって、ずれがおきてしまう。そのずれは、国が実体としては無くて、不在として有ることからくる。直接の現前(presentation)ではなくて、表象(representation)としてしかないものなのが国だと言えるだろう。

 ロシアでいえば、ロシアの国を代表しているのがプーチン大統領だけど、プーチン大統領はあくまでも表象にすぎないから、うそをつきまくることになっている。表象にすぎないものであるプーチン大統領は、ロシアの国そのものではないから、ロシアの国そのものとはちがっている。ずれがおきている。

 そもそも、ロシアの国そのものは無いものだけど、それがあたかもあるかのようにしつつ、なおかつその直接の現前に当たるものであるかのようにしているのがプーチン大統領だ。

 ロシアにかぎらず、どこの国についても言えることだけど、国は表象としてしかないものだ。国の代表は表象としてあるものだから、国そのものではない。国そのものがあるとするのだとしても、それとのあいだにずれがおきることになる。国そのものは、直接の現前としては示せないものであり、食べものでいえばドーナツの穴や玉ねぎ(の皮)のようなものに当たる。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや)、荻上チキ編 飯田泰之 鈴木謙介 橋本努 本田由紀 吉田徹 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『思考のレッスン』丸谷才一構築主義とは何か』上野千鶴子編 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士社会学になにができるか』奥村隆編 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『思考をひらく 分断される世界のなかで(思考のフロンティア 別冊)』姜尚中(かんさんじゅん) 齋藤純一 杉田敦 高橋哲哉