ロシアとウクライナの戦争で、ロシアは悪でウクライナは善なのか―国がもつ暴力性

 ロシアとウクライナのあいだで、戦争がおきている。ロシアがウクライナのなかに軍を送りこんで攻め入ったかたちだ。

 ロシアとウクライナの戦争をどのように見なすことができるだろうか。ロシアが悪でウクライナは善だとするのとはややちがう角度から見てみたい。

 国のもつ暴力性や、国のなかの中心と辺境や、中心と局地や地方の点から見てみたい。

 ロシアもウクライナも、どちらも主権をもつ国である。国は、その地域の暴力を独占するものだ。ロシアもウクライナも、どちらも国なので、反社会の勢力のようなところがある。

 反社会の勢力どうしによる争いといったところがあるのが、ロシアとウクライナのあいだの戦争だ。おたがいに、自分たちが支配しているしまをめぐって争う。しま争いだ。

 ウクライナは、はたして一つの国としてきっちりとまとまっているのかといえば、そうではないところがあるかもしれない。国の中には、いろいろな考えをもつ人たちがいるから、すべての人がみんな同じ考え方をもっているとは言えそうにない。

 実在(sein)のところを見てみると、すべての人がみんな同じ考え方によっているとは言えないのがウクライナにはあるだろう。それはロシアにも言えることだ。一つのまとまりとしての国は、あらためて見るとなりたちづらいのがあり、たとえ一つの国の中であったとしても、いろいろな考え方のちがいがあって、国の中でのぶつかり合いがある。

 一つの国の中では、中央にたいして辺境があり、中央とはちがうあり方に辺境がなっていることがある。中央は、その国の文化の色合いが濃いのだとしても、辺境ではそれがうすい。辺境では、国の内であるよりも、国の外の文化の色合いが濃い。そういったことがある。

 中央と辺境が、ちがうあり方になっているとして、辺境にいる人にとってみれば、その辺境のあり方のほうが身近だ。中央のあり方は、身近ではなくて、距離として遠さがあることがある。中央との距離の遠さがあるのであれば、辺境は反国家のようなことになる。辺境からすると、中央は異化されることになる。辺境にとって、中央は異国のようになることがある。

 中央が正しくて、辺境がまちがっているとは必ずしも言えそうにない。中央のまちがいを、辺境が浮きぼりにすることがある。中央は、国を代表しているが、国とのあいだに距離をとることがいる。国とのあいだに距離がとれなくなって、国とぴったりと一体化してしまうと、そこに危なさがおきてくる。

 いまは世界でグローバル化がおきているのがあり、国の中にいろいろに穴が開く。国のあちらこちらに穴が開くことになり、多孔化する。いろいろに開いている穴に、フタのおおい(cover)をして見えなくさせるのが、虚偽意識としての国だ。

 いまの世界のありようは、国どうしが複合の相互の依存になっている。ロシアが悪いのがあって、ほかの国々がそこに経済の制裁をかすと、ロシアだけに負の打撃が加わるのではなくなる。ロシアだけに痛手がおきるのではなくて、ロシアもろとも、ほかの国々も巻きこんで、世界の全体の経済などが不安定化して行く。グローバル化している中ではそれがおきてしまいそうだ。

 ロシアとウクライナの戦争では、ロシアが一方的にウクライナに攻めこんだのだから、ロシアが悪いのはたしかだ。ロシアが悪いのはあるのにしても、一つの国の中が、一つの色だけに染まっているのではないのがある。国の中にはいろいろな色があり、いろいろな考え方をもつ人たちがいる。一まとめにはできないのがある。

 ロシアの国が言っていることは、そのまま丸ごとうのみにはできない。それと同じように、ウクライナの国が言っていることもまた、そのまま丸ごとうのみにはできないものだろう。国は、その地域の暴力を独占していて、暴力をうしろだてにしているから、いざとなったら暴力にものを言わせて国民を従わせられる。その危なさは、ロシアだけにあるのではなくて、ウクライナにもまたあるだろう。

 参照文献 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける)