日本と韓国のあいだの歴史戦と、のぞましい交通のあり方―どのような交通によるべきか

 日本の国をよしとする歴史によるようにする。それで韓国とやり合って行く。歴史戦をたたかって行く。

 日本の世界文化遺産の登録をめぐって、日本と韓国とのあいだで歴史の争いがおきている。日本の佐渡島の金山を世界文化遺産に登録することについて、韓国から批判の声がおきている。戦時中にそこに朝鮮半島からの人を強制に労働させていたのがあるとされることによる。

 日韓のあいだで、歴史の見なし方が異なっているのがあるが、日本は歴史戦をたたかって行くべきなのだろうか。日本の国をよしとする歴史を言って行き、韓国に勝つべきなのだろうか。

 歴史戦をたたかうのであるよりも、交通のあり方において、異交通にして行く。日韓のあいだでやり取りを重ねて行き、双交通によって交わり合う。日韓のあいだで、歴史の事実をさぐって行く。日本の一国だけでは盲点となってしまうところを見て行く。

 日本の国をよしとする歴史をとってしまうと、本質主義によることになる。国がまず先に立つような本質主義だと、日本をよしとする歴史が絶対化されてしまう。国がまず先に立つあり方ではなくて、日本の国をかっこに入れて行く。それで歴史を見て行くことがいる。

 国をまず先に立たせる本質主義によるのだと、いろいろな物語によることになる。一つには、国が物語なのがある。物語である国があり、その国をよしとする歴史がとられる。国をよしとする歴史も一つの物語だ。一つだけではなくていくつもの物語によってしまうことになり、それらの物語が絶対化されてしまう。

 国は物語なのがあるから、そこには構築性がある。国をよしとする歴史もまた物語だから、そこには構築性がある。日本の国は、物語であり、構築性があることから、まちがいなく自明なものだとは言えそうにない。国をよしとする歴史もまた、物語であり、構築性があるから、まちがいなく自明なものだとは言えそうにない。

 日本にとっては他国(隣国)にあたる韓国のことを抜きにしたのだとしても、日本の一国の中だけであったとしても、大きな物語はなりたちづらい。国のことや、国をよしとする歴史を、大きな物語にはできづらいのがある。基礎づけできないのがあるから、小さな物語にならざるをえない。

 国の歴史についてをテクストとして見てみられるとすると、日本の国をよしとする視点だけを特権化することはできづらい。いろいろな視点がなりたつことになる。たった一つだけではなくて、できるだけいろいろな視点によるようにして行く。いろいろな視点によって、日本の国の歴史を見て行くようにして、思想の自由市場(free market of ideas)のようにして行く。

 思想の自由市場にまかせるようにするのではなくて、中央にある国が市場に介入してしまうと、自由がなくなってしまい、強制になってしまう。たった一つの視点だけを特権化することになる。それを避けるようにして、国の歴史をテクストとして見て行くようにしたい。いろいろな視点によるようにする。

 日本の国の視点があり、韓国の国の視点もある。その二つが争い合うことになるが、それらは枠組み(framework)のちがいによる。それぞれがそれぞれの枠組みによって国の歴史を見ている。枠組みを抜きにして、じかに歴史をとらえているのではないものだろう。あらかじめある枠組みから、歴史を見ているのだ。

 それぞれの枠組みは絶対のものではなくて相対によるものだから、限界をもつ。人間のやることには合理性の限界がつきまとうから、日本の国がもつ枠組みが絶対化されるわけではない。

 完ぺきに正しいとしてしまうと、それが教義(dogma、assumption)や教条と化す。教義や教条といえるほどに日本の国がもっている枠組みが正しいとは言えない。まちがいがあることを避けられない。

 大きな物語のようには、完ぺきに正しいものとして基礎づけたりしたて上げたりできないのが、日本の国がもつ枠組みだ。合理性の限界をくみ入れるようにして、日本の国をよしとすることにこしつしたりこだわったりしすぎないことがいる。こしつしたりこだわったりしすぎると、それが災いしてしまい、よりよいあり方にできづらい。

 交通においては、日韓のあいだでたがいにやり取りを重ねて行き、双交通でやって行く。双交通でたがいに交わり合いを重ねていって、よりよいあり方である異交通にして行く。異交通にすることができれば、それまでよりもより高次の合理性にいたれる。山にのぼることで言えば、頂上までは行けないが、一合目よりもより高い二合目、三合目くらいまでにはいたれる。

 いっけんすると、日本の国をよしとする歴史は、日本にとってよいものであるようではあるが、それがかえって低次の合理性にとどまらせることにはたらく。山でいえば、一合目のままにとどまることになる。それよりもより高い、二合目や三合目には行けない。日本の国だけが正しいのだとしつづけると、一合目にとどまりつづけることになり、二合目や三合目には行きづらい。上に行けない。

 一合目の低いところにとどまりつづけることをうち破って行く。低次のあり方をうち破って行き、二合目、三合目を目ざして行く。低次の合理性を、高次の合理性になるようにして行く。国においては、国を超える(越える)ようにしていったほうが、より高次の合理性にいたりやすい。

 国を超えるようにするのは、国をまず先に立たせて、国を本質化するのではないあり方だ。国は物語であるのにすぎず、大きな物語ではなくて小さな物語でしかないのだと見なす。国を本質化しないようにして、日韓のあいだで歴史の正しさを共に探って行くようにして行きたい。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫構築主義とは何か』上野千鶴子編 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)