テレビの画面に映し出される、テレビの世界のまずさ―テレビ民主主義のまずさ

 日本のいまの政治を、情報政治(infopolitics)の点から見てみられるとすると、どういったことが言えるだろうか。そこで言えることとして、テレビ民主主義をあげられる。

 テレビ民主主義では、テレビと反テレビ(非テレビ)がある。テレビが力をもった形で民主主義が行なわれるのがテレビ民主主義だが、それだけではなくて、反テレビ民主主義や非テレビ民主主義もまたある。

 反テレビ民主主義や非テレビ民主主義は、ウェブでのものがある。それによるものとして、国の政治の政党では、れいわ新選組をあげられる。れいわ新選組は、どちらかと言えば、日本のテレビのあり方にはなじまないところがあり、あまりテレビにばんばん出るほうではない。テレビの世界からまねかれることがそれほど多いとは言えないだろう。ウェブにおける支持が多そうなのがれいわ新選組だ。

 国の政党では、与党である自由民主党や野党の日本維新の会は、テレビ民主主義によっている。維新の会の政治家や関係者は、やたらにテレビ番組に出ていて、テレビの世界に適合している。テレビ番組にたびたび出ることになり、重用されることになる。政治の三バン(地盤、看板、かばん)のうちの、看板である知名度を上げることができて、顔を売れるから、政治においては有利にはたらく。

 地上においては、テレビによるテレビ民主主義が行なわれていて、あたかもそれだけが政治であるかのようにされている。地上はそうなっているが、それとは別に地下もあり、地下では反テレビや非テレビの民主主義が行なわれている。ウェブなどにおけるものだ。

 地盤の沈下がおきていて、テレビ民主主義の質が落ちていっている。質が下に引き下がっていってしまっている。地下にあるものが地上に影響を与えていて、地上のものの質を落として下に引き下げるような影響を地下が与えている。

 ゲシュタルト心理学でいわれる図がら(figure)と地づら(ground)では、テレビが図がらに当たり、それ以外が地づらに当たるが、それを反転することがなりたつ。反転させてみると、テレビが地づらになり、テレビではあつかわれないで、テレビがとり落としてしまっている色々なことのほうがより重みをもつ。反テレビや非テレビが図がらになる。

 目だつ度合いで言えば、テレビは目だちやすい。目だちやすいので、政治の権力から標的にされやすい。放送法が言論法となり、ものを言う自由がせばめられる。テレビ民主主義は、目だちやすいところのものであることによって、質が落ちて行く。

 目だちやすいところは標的にされやすいが、目だちづらいところは放っておかれる。いちいち目だちづらいところにまではかまっていられない。目だちづらいところを標的にするのは効率が悪いから、効率性の点からすると、目だちやすいところを標的にしたほうが合理性が高いのである。

 支配の効率性の点からすると、テレビの世界でものを言う自由をせばめて、自由にものを言わせなくする。テレビ民主主義ではそうなっている。テレビには効率性はあるものの適正さが欠けることになる。

 物理のじかの暴力によるのではない、間接の支配のための道具となっているのがテレビにはあり、国家のイデオロギー装置になっている。国の中で中心化されているのがテレビであり、中心化された中での営みがテレビ民主主義だ。それを脱中心化するようにして、辺境や周縁をとり立てるようにしたい。辺境や周縁は、反テレビや非テレビに当たる。

 公共性においては、中心ではなくて、辺境や周縁をとり上げて行かないとならない。中心ばかりをとり上げるのだと、公共性をはたしているとは言えなくなる。テレビ民主主義では、中心ばかりがとり上げられてしまっているのがあり、中心への志向が強い。それを改めるようにして、量による多数派ではなくて、質による少数派をどんどんとり上げるようにして行く。辺境や周縁にどんどん目を向けて行く。それが反テレビや非テレビによることになり、これまでの日本のテレビのあり方のまずさを反省することにつながって行く。

 参照文献 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『NHK 問題』武田徹現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)