ロシアとウクライナの戦争と、憲法の九条―九条で国を守れるのか

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。それが言われる中で、日本の憲法の第九条があったとしても戦争を止められないと言われているのがある。

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきるのを止められないのだから、九条はまったく意味がないものなのだろうか。ロシアとウクライナで戦争がおきたことに見られるように、九条があったとしても国を守ることはできないのだろうか。

 九条は無力だと言われているのとは逆に、むしろ九条の意味あいが大きくなっていると言えるのが、ロシアとウクライナの戦争がおきた中で言える。九条が役に立たないのではなくて、むしろ九条のもつ有効性があらためて確かめられるところがあるのが、ロシアとウクライナの戦争がおきている中で言えることになりそうだ。

 日本の国を守るためには、九条は役には立たないと言えるのよりも、むしろアメリカとの同盟が役に立たない。アメリカが日本を守ってくれるとされていることの化けの皮がはがれているのがあり、その自明性がなくなっている。そう言えるのがある。九条が疑わしいのであるよりも、アメリカが疑わしい。

 日本が自分たちで自国を守って行く。それがあるのだとしても、そもそも日本の国のあり方である国体(nationhood)は、武力によりがちなのがある。武力によりさえすれば日本の国を守れるとするのが日本にはあり、その発想が強い。そこにまちがいがあると言える。

 九条がどうかと言うよりも、日本の国体が武力によりがちなのがよくない。何かと武力によりがちなのがあり、武力を重んじて行く。その日本の国体のあり方を改めて行くことがいる。

 武力を重んじるのが日本の国体にはあるけど、それは日本の国民を守るためのものではない。日本の国民の命は、失われてもよいものである。いくらでもかえがきく。戦争のさいには、日本の国はそうしたあり方をとっていた。

 国を守ることは、国民を守ることと等しいことではない。そこに気をつけることがいるだろう。武力によって日本の国体を守って行くのだとしても、それは日本の国民を守って行くことを意味するものではない。日本の国体を守ることが第一とされるのにすぎず、日本の国民を守るのとはちがう。

 武力を重んじるようにして、軍を強めて行けば、日本の国を守れるのかと言えば、そこには確かな自明性があるとは言えそうにない。戦前の明治の時代から、日本は富国強兵でやって来たが、その強兵のあり方は一九四五年の敗戦によって大きな失敗にいたった。

 日本の国体は、武力を重んじて、強兵によるあり方がとられるけど、その発想によっていても、一九四五年に敗戦して大きな失敗にいたったように、まちがった方向に向かって国の全体がつっ走って行くおそれが小さくない。

 九条が日本の国を守るのに役に立たないとか意味がないのであるよりも、日本の国体の発想がよくない。日本の国体のあり方が批判されるべきである。なにかと力によりがちなのが日本の国体にはあり、力でねじふせようとする。らんぼうなところがある。荒々しいところがある。

 ものごとを逆から見てみられるとすると、いっけんすると九条は日本の国を守るのに役に立たなかったり意味がなかったりするかもしれないけど、あんがいそうでもない。いっけんすると日本の国体の武力を重んじる強兵のあり方は、日本の国を守るのに役に立ったり意味があったりするようでいて、じつはそうではない。

 日本の国体は、それそのものが危険性をもつ。それそのものが何らかの手だてによって抑制されなければならない。日本の国体は、ほうっておけばたやすく個人の私を押しつぶして、個人がもつ基本の人権を侵害して行く。個人のことを否定する性格をもつ。日本の国体そのものがもつ、力にたよるあり方の危険性にしっかりと目を向けて行きたい。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん)