ロシアとウクライナの戦争で、ウクライナをよしとする人は、ウクライナに行くべきなのか―ウクライナに行って戦うべきなのか

 ロシアとウクライナのあいだで、戦争がおきている。

 ロシアがウクライナに攻めこんでいる中で、ウクライナは自国を守るためにロシアの軍と戦っている。

 ウクライナがロシアと戦うのをよしとするのであれば、その人はウクライナに行って戦え。ウクライナは外から義勇兵をつのっているので、それに参加せよ。そう言われているのがあった。

 ロシアとウクライナが戦っている中で、ウクライナの立ち場をよしとするのであれば、その人はウクライナに行かないとならないのだろうか。

 たしかに、二つの立ち場が戦っているのがある中で、そのうちの一つの立ち場をよしとするのであれば、自分がその立ち場の中に参加して、自分が戦うことは、まったく筋が通っていないことだとまでは言えそうにない。

 ものごとをふ分けして見てみられるとすると、一つには、ウクライナに攻めこんだロシアが悪いのがある。ロシアがウクライナに攻めこんだことで、戦争がおきたのがあるから、ロシアが攻めこまなければ、戦争はおきなかった。その点でロシアに悪さがあると言える。

 事前と事後に切り分けて見てみられるとすると、まだロシアがじっさいにウクライナに攻めこむ前の事前において、色々なことに力を入れて行く。火事でいえば、まだ火が小さいぼやのうちにできるだけ消火して行く。あるていど以上に火の手が大きくなってしまったら、もはや事後になってしまっているのをしめす。

 最初期重点対処の法則があり、火事でいえば、はじめのうちのまだ火が小さいぼやのうちには消火しやすいから、そのときにできるかぎりの力が入れられればよかった。事前にできるかぎりの力を注ぐのがよいのがあり、それによってものごとをうまく片づけて行く。

 じっさいにロシアとウクライナのあいだで戦争がおきてしまったら、もはや事後になってしまっている。最初期重点対処の法則でいえば、いちばん力が入れられるべき最初期をとうにすぎてしまった。事後になってしまったら、そこからそれを何とかして行くのはかなりむずかしいことがある。火事でいえば、あるていどより以上に火が大きくなっているから、それを消火するのはそうとうに困難なことがある。

 戦争がおきてしまってからは、いったいどうするべきなのかといえば、できることは限られていると言えるだろう。そのなかで、一つには、そもそもだれの人の血も流れるべきではないし、だれの人の血も流れる必要がないのを言いたい。だれかの血が流れなければならないとするのは、必要性のねつ造だろう。

 だれの血も流れることはいらないのがあるから、戦争をすることをよしとするのではなくて、それにたいして反対をしたい。そのことを西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)で言えるとすると、正と反と合がある中で、ロシアが正で、ウクライナが反に当たるとして、それが合になることがいる。止揚(aufheben)されることがいる。

 正であるロシアと、反であるウクライナが、たがいに戦争をするのは、不毛なことである。戦争をするのは不毛だから、できるかぎりすみやかに、正と反を合にして、止揚されることがいり、戦争が停止されることがいる。

 たとえロシアが悪いからといって、ロシアとウクライナが戦争をしつづけるのはよいことではないから、その点でいえば、必ずしもウクライナのことをよしとすることはできづらい。ウクライナは、ロシアと戦うべきだとは必ずしも言えないのがある。それがよいことだとは言い切れないのがある。

 ウクライナの立ち場からすれば、ロシアと戦うことは、一つの手段だ。主体としてのウクライナが、手段として(ロシアと)戦うことを選ぶのは、手段としては必ずしも正しいものではない。手段としてはあまりよいものではないだろう。

 紛争がおきている中で、主体であるロシアと、主体であるウクライナがたがいにもめ合う。そこでいるのは、強い立ち場にあるロシアが、ウクライナのことを承認することだろう。ロシアがウクライナの立ち場を認めるようにして、客むかえ(hospitality)をして行く。よき歓待をして行く。どういった点でお互いにもめ合っているのかを確かめて行き、争点は何なのかを明らかにする。その争点を解決して行く。

 日本でひらかれた東京五輪では、おもてなしが言われたが、ロシアはウクライナをおもてなしして行く。強い立ち場にあるものが、力の点で劣る立ち場にあるものをおもてなしして行き、客むかえをする。そうすることによって、正義が行なわれることにつながる。

 ロシアとウクライナとで、おたがいがもっている枠組み(framework)がちがうのがあるから、たがいの枠組みをうまく橋わたしできればよい。ロシアがもつ枠組みが絶対に正しいとは言えないのと同じように、ウクライナがもつ枠組みもまた絶対に正しいものだとは言えないものだろう。

 たとえロシアが悪いのがあるのにしても、ウクライナがもっている枠組みもまた必ずしも絶対に正しいとまでは言えそうにない。ウクライナもまた、教義(dogma、assumption)や教条と言えるほどには正しいとは言えないのがある。ロシアとウクライナのあいだで、いざ戦争がおきてしまったら、どちらかの国だけが完ぺきに正しい、または完ぺきに悪いとは言えないところがある。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『コミュニケーションを学ぶ』高田明典(あきのり) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら)