ロシアとウクライナの対立と、国の幻想性―国の虚構性

 ロシアが、ウクライナの東部に軍を送りこむ。

 ウクライナの東部には、ロシアに近しい親ロシア派が支配しているところがあるという。そこの二つの地域の独立を認めることを、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は言った。

 ロシアがウクライナの東部に軍を送り、そこの独立を認めたことを、どのように見なすことができるだろうか。

 ロシアの動きには、ほかの国から批判の声があがっている。国際連合は、主権国家の独立性の原則をロシアがふみにじっていることを批判している。いろいろな国によって、ロシアに経済の制裁をかすことが探られている。

 ロシアとウクライナを、体系(system)として見てみたい。それぞれの国を体系として見てみられるとすると、どこからどこまでが自国の内部なのかは、たしかに定まっているものだとは言えそうにない。自国の内部と外部のあいだに引かれる境界の線引きは、揺らぎをもつ。人工の人為によって境界の線が引かれている。

 集団の内部と外部は、流通し合っているのがあり、外部を完ぺきに排除することはできづらい。内部に外部が入りこむ。純粋な内部はなりたたない。内部に外部が入りこまざるをえないから、内部は純粋ではなくて不純なものになる。

 実体としてその集団があるのではなくて、集団のまとまりは想像の共同体であり共同幻想だ。集団の内部の人たちが、その集団があると見なすことで、その集団があることになるが、それは思いこみの観念によるものだ。

 ロシアとウクライナであれば、ロシアはロシアで、ウクライナウクライナで、それぞれが独立してあるとは言えそうにない。ロシアとウクライナが、それぞれに関係し合う。関係がまず先にあり、関係の第一次性によっている。関係主義からするとそう言える。

 たしかな根拠があって、国の境界の線引きが引かれているのではなくて、たまたまそこに境界の線が引かれているのにとどまる。根拠があるようでいて、じっさいにはしっかりとしたものがあるとは言えない。

 グローバル化がおきていて、国の中にいくつもの穴が開く。国の中が多孔化する。国の内部と外部を分ける境界の線引きが揺らぐ。境界の線引きは、まちがいなく自明なものとしてあるとは言えそうにない。自明性がなくなり、自然なものではなくて人工の人為で作られたものであることが浮きぼりになる。構築性があることが大きくなる。

 いったん国の境界の線引きを引いたら、それがそのごにいっさい変わることがなく、揺らぐことがないとは言えそうにない。変わったり揺らいだりすることがおきる。それがおきるのは、境界の線引きが人工の人為で作られたものだからである。

 実体として、境界の線が引かれているのではなくて、その線は観念の思いこみによる。線があるのだとしているけど、じっさいには無い。線があるけど無いのがあり、そこに有と無の二重性があると言える。線があるのだとしても、それは生成されたものであり、生成されたものが変化して行く。グローバル化がおきている中で、線をしっかりと固定化することができづらくなっている。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ)