化粧品会社の会長の発言が差別にあたるとして批判の声がおきている―何々であるから何々であるべきをみちびく自然主義の誤びゅう

 サントリーは広告に使っている芸能人に朝鮮半島系(コリアン)が多い。そこからウェブではチョントリーと言われている。それとはちがって DHC は純粋な日本人による会社だ。DHC の会長はそう言っている。会長が言っていることにたいして批判の声がおきている。

 DHC の会長が言っているように、朝鮮半島系の人たちを広告で使うことはよくないことなのだろうか。そのように見なしてしまうと論理学でいわれる自然主義の誤びゅうになるのがある。

 自然主義の誤びゅうでは、何々である(is)から何々であるべき(ought)をみちびく。たとえ朝鮮半島系であるからといって、その何々であるから何々であるべきをみちびくと誤びゅうにおちいる。

 ナチス・ドイツユダヤ人をせん滅しようとしたが、そのさいにとられていたのが自然主義の誤びゅうだ。ユダヤ人だから駄目だとして、何々であるから何々であるべきをみちびいた。それで多くのユダヤ人の人たちがナチス・ドイツによって殺された。

 何々であるは事実であり、何々であるべきは価値だ。事実と価値は完全に二つに分けられるのかといえばそれはできづらい。どうしても何々であるの事実の中に何々であるべきの価値が入りこんでしまう。そこから日本人であるの事実の中にすごいとか優れているといった正の価値を入りこませてしまう。そうしがちだ。そこになるべく気をつけるようにしたい。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論で見てみられるとすると、日本人と朝鮮半島系の人たちとは同じ人間であることから類似性をもつ。人間であることの類似性があるから比べようとするのがある。ちがいを見いだすさいに日本人だから優れていて朝鮮半島系だから劣っているとしてしまうとまちがった階層(class)の差をつけることになってしまう。

 日本人の階層に属しているから優れているとは言えそうにない。朝鮮半島系の階層に属しているから劣っているといったことはない。日本人の階層に属していることは優れていることを含意するものではないし、朝鮮半島系の階層に属していることは劣っていることを含意しない。

 日本の戦前や戦時中の天皇制では、いちばん上に神とされた天皇がいた。それについで日本人の階層をもっとも上に置いた。その下に植民地として支配した朝鮮半島系の人たちなどを置いた。どの階層に属していてもみんな平等だったのではない。

 戦前や戦時中の日本では天皇が絶対の価値をもつものとして中心化されていて、それに近いほど価値があるとされた。天皇との距離が遠くなるのにしたがって価値が低いものだとされた。天皇に近い道具や動物(馬など)と天皇から遠い人間とでは、人間よりも道具や動物のほうにより高い価値が置かれた。

 天皇に近い道具や動物はとりかえがきかないが人間はいくらでもとりかえがきくのだとされたのである。人間はたんなる天皇の手段にすぎず、人間はそれそのものが目的としてあつかわれなかった。人間をそれそのものを(何かのための手段ではなく)目的としてあつかうのは人格主義(personalism)によるものであり、個人の尊重である。

 戦前や戦時中の日本では天皇制からくる差別があったが、それをいまにおいて再生産しないようにしたい。日本人の階層があるとしても、それをもってして優れているとは言えないし、朝鮮半島系の階層があってもそれをもってして劣っているのではない。

 日本人の階層とそれ以外の階層とのあいだに差をつけてしまうと、差別による秩序が形づくられる。それをさし示すことはできるだけ差別をしないようにして行こうといった一般の理想によるのとともに、現実にすでに日本の社会の中にある差別による階層の秩序を改めて行くことがいることでもある。その差別による階層の秩序を固定化させてしまうことになるのが、差別による発言だ。

 日本人の階層と朝鮮半島系の階層とのあいだにきれいに分類線を引けるのだとは言えそうにない。それなのにもかかわらずそのあいだにきれいに分類線を引こうとするのが国家主義(nationalism)だ。いまは世界がグローバル化しているのがあるので国ごとの単位のまとまりによる分類線を引きづらい。分類線が揺らいでいる。もともと国を分ける国境の境界線の線引きは人為の人工のものである。自然なものではなくて人為のものだからそこに絶対の必然性があるとは言いづらい。

 国境の境界線によってきれいに純粋な日本人の階層と純粋な朝鮮半島系の階層とには分けづらい。まったく純粋な日本人やまったく純粋な朝鮮半島系とに完全にしたて上げたり基礎づけたりすることはもともとできないことだが、それがますますできなくなっている。

 完全に純粋なものとして日本人と朝鮮半島系の人たちを分けようとするのは虚偽意識によるものだろう。現実には純粋ではなくて不純さを含む。もともとが人間どうしなのだから類似性をもっているのがあり、まったく類似性がないのであればそれぞれを比べることがなりたたない。東洋の思想家の莊子(そうし)は万物斉同(ばんぶつせいどう)と言っていて、大もとのところではあらゆるものはみな同じだと言っている。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『思考をひらく 分断される世界のなかで』(思考のフロンティア 別冊) 姜尚中(かんさんじゅん) 齋藤純一 杉田敦 高橋哲哉 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『人間と価値』亀山純生(すみお)