日本の負の歴史がのっている百科事典は、まちがっているのか―百科事典の内容は改められるべきなのか

 子ども向けの百科事典に、日本の国の負の歴史がのせられている。

 ポプラ社の百科事典では、戦争のさいに日本の国が従軍慰安婦のしくみをとっていたことが記されている。ほかの国の民族の女性たちを強制に従軍慰安婦として利用した。

 従軍慰安婦をみとめるポプラ社の百科事典はまちがっているとして、与党である自由民主党の政治家はよくないことであるとしていた。百科事典の歴史の説明を改めさせることがいるとしていた。日本の国をよしとするような歴史の説明に変えさせる。

 日本の国のことを悪く言うような歴史の説明が百科事典にのっているのはよくない。そういった声があり、日本の国の政治の権力が介入してでも、百科事典にのっている歴史の説明を改めさせるべきだとのことが言われている。

 子ども向けの百科事典に、従軍慰安婦をみとめる歴史の説明がのっていることは、よくないことなのだろうか。国の政治の権力が介入してでも、歴史の説明を改めさせるべきなのだろうか。

 構築主義(constructionism)の点から見てみられるとすると、従軍慰安婦をみとめる歴史の説明が百科事典にのっていることは、本質的かつ客観に悪いことだとは言い切れそうにない。本質的と言えるほどに悪いとは言い切れないし、客観によくないことだとも言えそうにない。あくまでも主観としてそれをよくないと言う人がいるのにとどまるだろう。

 日本の国にとってどうなのかといった点から歴史を見てしまうと、本質主義によることになる。本質主義によるのだと、日本の国がまずありきになり、日本の国が先だつ。そうではなくて、実存主義から見るようにするのがどちらかといえばふさわしいのが従軍慰安婦についてのことだろう。

 どこの国かやどこの民族かだけではなくて、それを抜きにした実存としての女性が被害を受けたのが従軍慰安婦のことだろう。実存として見るのがふさわしいところがあるから、日本の国を先に立たせて見るのは必ずしもふさわしいことではない。日本の国のことはあと回しにして、実存の個人の私としての女性が被害を受けたこと(または被害を受けたのかどうか)を優先させて見るようにしたい。

 完全に正しい過去の歴史をあらわすのはむずかしい。たとえ百科事典にのっている歴史の説明であったとしても、それが完ぺきに客観だと言えるほどに正しいものだとは言えないものだろう。どこかに人工の作為が入ってしまい、構築性がおきることになる。取捨選択が行なわれる。物語と化す。

 だれかが書いたことによって、百科事典に歴史の説明がのることになるが、その送り手となる人や、または出版社がもっている枠組み(framework)がある。送り手や出版社がもつ枠組みと、受け手がもっている枠組みがある。それらのあいだの枠組みどうしが合うかそれともずれるかがある。

 どのような歴史が日本の国にとってふさわしいのかは、それぞれの人が持っている枠組みによっているのがあり、生の客観の歴史とはちがっている。それぞれの人がもっている枠組みに合うような歴史ならそれをよいものだと見なす。枠組みとは合わない歴史ならそれをよくないものだと見なす。

 どれかの枠組みだけが絶対に完ぺきに正しいとは言い切れそうにない。それぞれの枠組みは限界があるといえて、まちがっている見こみがある。大きな物語だと言えるほどには正しいとは言えず、小さな物語にならざるをえない。

 教義(dogma、assumption)や教条と言えるほどには、客観の正しい歴史を言うことはできづらい。たとえ従軍慰安婦をみとめるにせよ、認めないのにせよ、いずれにしても閉じてしまうのはよいことではないから、開かれたあり方であるのがのぞましい。

 閉じたあり方だと反証の可能性がないことになるから、開かれているようにして反証の可能性をもつようにしたい。閉じたあり方だと、実証されるだけになり、肯定されるだけになる。確証(肯定性)の認知のゆがみがはたらく。

 確証の認知のゆがみがおきていると、日本の国をよしとするのであれば、日本の国をよしとする情報しか受けとらなくなる。それ以外の、日本の国をよしとはせずに悪く言う情報は、すべてまちがっているのだとしてしまい、受けとらなくなる。情報の受けとり方にかたよりがおきることになる。

 閉じているか開いているかでは、たとえば、百科事典の歴史の説明に見られるように、従軍慰安婦があったのだとしてそれを認めるのだと、閉じることになり、それに反対する声がおきる。そうかといって、開かれたあり方にして、従軍慰安婦があったかなかったかはわからず、はっきりとはしていないとしてしまうと、煮え切らなくなる。開かれたあり方だと、送り手がこれこれこうであるとは言い切らないから、受け手にゆだねられることになる。

 閉じているあり方のほうがわかりやすいけど、現実の客観の歴史とはずれるのがおきるところがある。閉じているあり方をとるのだとしても、受け手がどのように受けとるのかは必ずしも定まってはいない。送り手が言ったことを、受け手がそのまま丸ごとうのみにするとは限らない。百科事典に、従軍慰安婦があったと認める歴史の説明がのっていても、その送り手が言っていることについて、受け手がそれをよしとするだけではなくて、いやそれはちがうとして反対することもある。

 受け手がどのように受けとるのかは、あらかじめ完全に定まっているとは言えず、未定なところがある。閉じたあり方によって、子どもが受け手であるのなら、子どもに一方的に正しい歴史を教えこむのも一つのやり方としてはありかもしれない。

 上から正しいことを一方的に教えこむのとはちがうやり方としては、いろいろな質の情報を子どもに触れさせるのもありだろう。たくさんの情報に触れさせる。子どもが、自律性(autonomy)をもつ形で、自分でいろいろな情報に自由に接して、自分で考えて行く。個人の自己決定(personal autonomy)を重んじる。権威化されたものを、子どもがそのまま丸ごとうのみにするのではないようにして行く。科学の思考法によるようにして行く。そういうやり方もとることができる。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香