外国人には、日本の政治に参加する資格はなく、人権は無いのか

 外国人が政治に参加する権利を、地方自治体で認めようとする動きがおきている。そのことについてをどのように見なせるだろうか。

 政治に参加する権利が、外国人に与えられるのはよいことではない。外国人に基本の人権(fundamental human rights)を認めるかどうかについては、すぐに認めることができるものではない。野党の党首はそうしたことを言っていた。これは国家主義(nationalism)の文脈からの発言だろう。

 いま日本の一部でおきているような、外国人が政治に参加する権利を認めようとする動きが、どんどん広がって行けばよい。日本人には、あたかも当たり前のように政治に参加する権利が与えられているが、その権利がしっかりと行使されているとは言えそうにない。選挙で投票が棄権されることが多い。

 線引きについてを見てみると、日本人か外国人かと、人間か動物かをとり上げられる。日本人と外国人のあいだの線引きと、人間と動物とのあいだの線引きが引かれている。日本人と外国人のあいだに、しっかりとした分断の線を引こうとするのが国家主義だ。国家主義では、日本人は人間だが、外国人は非人間であり動物であるとする見かたにつながりやすい。人間中心主義だ。

 外国人は非人間であり動物だとするのは、じっさいに出入国管理局の収容施設の中などでおきていることだ。外国人にたいする人権の侵害がおきていて、死亡する例もおきている。社会のなかでは、在日朝鮮人の人たちがいる建て物に放火することがおきている。外国人を非人間だと見なしたり動物だと見なしたりしていることから来ているものだ。

 外国人がいるから日本人がいるのがあり、非人間や動物がいるから人間がいる。そのなかで、日本人や人間とされるものがえらいのかといえば、そうとはいえそうにない。国家主義においては、日本人がえらいとなり、人間がえらいとなるが、そうしたあり方を改めるようにして、反国家主義によるようにして行くことがいる。日本人だからといってえらくはないし、人間だからといってえらくはない、として行く。

 日本人には政治に参加する権利が与えられているといっても、言い方は悪いかもしれないが、ことわざで言う、猫に小判やぶたに真珠といったところがないではない。日本では、合理の無知や(選挙での)合理の棄権がおきやすく、政治への無関心や無気力がおきている。政治の生(bios)よりも、動物の生(zoe)に落ちてしまっているのがある。

 日本人であったとしても外国人であったとしても、政治の生を生きられるようにして、できるだけみんなが政治に参加することができるようにして行く。日本人だけをとり上げて見てみても、政治に参加する権利があるからといって、政治の生を生きているとはいえず、動物の生を生きているところが大きい。日本人のあり方のまずさを改めるのをふくめて、動物の生を生きて行くだけのあり方を超えて、政治の生を生きて行けるようにして、政治への参加の権利が外国人にも広く拡大化されればよい。

 国家主義によらないようにして見てみると、いまはグローバル化しているのがあるので、国の中が多孔化していて、国の中のあちこちに穴が空いている。世界の中で国どうしが複合に相互依存しているのがあり、日本が自力でやっていっているのではなくて、他の国の支えのおかげで日本の国がかろうじてなりたっている。

 本質として日本の国や日本人がいるとはいえず、人為に構築された形でしか日本の国や日本人はない。構築性によっているのがあるので、どういったようにも日本の国や日本人をとらえることができる。かくあるべき当為(sollen)の日本の国や日本人とはちがい、かくある実在(sein)の日本の国や日本人は、不純なものにならざるをえない。

 純粋な日本の国や日本人は、かくあるべき当為でしかありえないものであり、幻想である。想像の共同体であり、共同幻想だ。かくある実在を見てみれば、いろいろなちがいをもつさまざまな人たちによっていることになり、本質によるものではない。日本の国や日本人が先に立つのは本質主義のあり方だが、そうではなくて、それらの本質よりも実存のほうが先立つのだと、実存主義によれば言えるだろう。

 国家主義本質主義のあり方によるのではなくて、本質よりも実存が先立つあり方によるようにして行く。日本人と外国人や、人間と動物とのあいだに、きびしい分断の線を引かないようにして行く。むりやりにでも分断の線を引こうとするのが国家主義だが、線が引けなくなっていることを認めるようにして、線を引くことを和らげて行く。

 線を引くことによるちがいはあって無きがごときものであり、おなじ人間どうしであることから、個人の尊重によるようにして、個人をなにかの道具や手段にはせずに、個人をそれそのものを目的とするようにする。人格主義(personalism)からはそう言えるのがあり、理想論としてはその方向性によるようにしたい。

 参照文献 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『反ナショナリズム姜尚中(かんさんじゅん)