ロシアとウクライナの対立と、国どうしの自己保存―自己保存による敵対や紛争

 ロシアが、ウクライナに攻め入る。そのおそれがおきている。ウクライナのまわりに、ロシアは軍を配備していることがわかっている。

 ロシアとウクライナの対立を、どのように見なすことができるだろうか。それについてを、社会契約論における自然状態として見てみたい。

 たくさんの国々が世界にはあるが、それらは自然状態(natural state)としてある。それぞれの国が、自己保存に努めている。自己保存に努める中で、各国の各国にたいする闘争(the war of all against all)がおきることになる。

 一つの国はリヴァイアサン(leviathan)であり、国の中では、国の中にたいして暴力をふるうことに抑えをきかせられる。やたらめったらに、国の中にたいして暴力をふるうことには抑えをきかせやすい。うまくリヴァイアサンが成り立っていればそれができる。

 国の外にたいしては、一つの国はビヒモス(behemoth)に当たる。ビヒモスは内乱や反乱や革命を行なう集団だ。世界の中では、それぞれの国はビヒモスだから、外にたいして暴力をふるうことに抑えをきかせづらい。

 世界において一つの中央政府または世界政府があれば、それが世界にとってのリヴァイアサンになる。国においては中央政府があるけど、世界においてはそれがない。世界の全体には中央政府がないから、それぞれの国は、国の外にたいしてはリヴァイアサンではなくてビヒモスに当たる。

 国の中であれば、ビヒモスが潜在化していて、抑制をかけられるのだとしても、国の外にたいしては、ビヒモスが顕在(けんざい)化している。国の中であったとしても、ビヒモスが無いわけではなくて、いつでもそれがあるが、それがうまく抑えこまれている。国の外には、ビヒモスがむき出しになるから、おもてにあらわれ出ることになる。

 ロシアとウクライナは、国際の点で見れば、それぞれがビヒモスどうしだ。ビヒモスどうしは、抑えがききづらいから、たがいの自己保存と自己保存がぶつかり合う。西洋の弁証法における、正と反と合がある中で、正と反がたがいに争い合う。

 弁証法において、正と反が対立し合っているのが、ロシアとウクライナの対立だと言える。それがつづくことになるのは不毛なことだ。不毛なことであるのは、社会契約論において自然状態がつづいてしまうからだ。社会状態(civil state)に移れない。

 自然状態から社会状態に移るのは、弁証法で、正と反を合にもって行くことだ。なんとかして、正と反を合にもって行き、止揚(aufheben)させるようにしたい。正と反が対立しつづけるのを終わらせるようにしたい。

 国際的には、国どうしはビヒモスどうしだから、たがいにぶつかり合いやすい。国の外にたいしては抑えをきかせづらい。国がビヒモスであることがおもてに出やすく、顕在化することになる。むき出しになる。

 国の自己保存からくるものである自民族中心主義(ethnocentrism)や愛国のあり方を、いかに和らげられるのかが一つの要点だ。国はその地域の暴力を独占しているから、その暴力によってほかの国を支配しようとする。国の外に向けては、国がもつ暴力の抑えがききづらく、暴力をふるいやすい。国がもつ暴力に抑えをきかせるためには、国家主義(nationalism)によらないようにして行くことがいる。国を超える(越える)ような、国の境界線の線引きを超える脱国家主義(trans-nationalism)の視点がいる。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし)