人にではなくて、国(日本)をヒトラーに例えてみたい―ヒトラーのもつ問題性

 ヒトラーにたとえる。そのことでもめ合っているのが、野党である立憲民主党日本維新の会だ。

 テレビ番組では、ヒトラーにたとえるのは憎悪の表現(hate speech)に当たることだから、西洋の国では法で罰せられることがあると言っていた。それへの反応としては、憎悪の表現に当てはまるものではないとの声が上がっている。

 立憲民主党菅直人元首相が、維新の会の関係者をヒトラーに例えたことは、よくないことだったのだろうか。そこにはいったいどのような問題性(problematic)があると言えるのだろうか。

 問題性についてを見てみると、ヒトラーにたとえることがよいか悪いかは、必ずしも重みをもつものだとは言えそうにない。維新の会は、そこを重んじていて、国際法または国際的にヒトラーにたとえるのは許されるものではないとしているが、これはことをわい小化しているのがある。たんに、例えることのよし悪しにことをわい小化しているところがあるし、菅元首相とのあいだでかみ合ったやり取りをしているとも言えそうにない。

 どういったところに問題性があるのかでは、例えることのよし悪しであるよりも、ヒトラーがもっていた主義や思想に問題性がある。そのように見なしてみたい。

 ヒトラーがもっていた主義や思想は、いまだに完全に払しょくされ切っていない。日本の政治家は、ヒトラーのやったやり方を日本は見ならうべきだと言っていたのがあるが、これはヒトラーの主義や思想がいまだに死に切っていなくて、生きつづけていることを示しているところがある。

 交通のあり方では、いまとかつてのあいだのいまかつて間があり、かつてのヒトラーの主義や思想が、いまにおいて生きつづけている。ヒトラーは悪かったのだというのとは別に、そうした答えとはちがったものとして、問いかけとしてあるのがヒトラーだと言える。答えが完全に出されていない問いかけとしてある。

 かつての悪いものが、いまにおいてただよいつづけていて、憑在(ひょうざい)している。ヒトラーがやったこととして、知識人や学問を否定したのがあり、個人が自由にものを考えることをさせないようにした。このあり方は、いまの日本の国でとられているものだろう。日本では、知識人や文化人や学者への攻撃が行なわれていて、学問が否定や軽視されているのがある。個人が自由にものを考えることをさせないようにしている。

 ヒトラーがやったようなことに、日本の国は近づいて行きやすい。維新の関係者であるよりは、日本の国のことをヒトラーに例えられるところがある。日本の国は、ヒトラーのあり方に近づいて行こうとする思わくをもつ。それは日本の政治家が、ヒトラーのやり方に日本は見ならうべきだと言ったことに示されている。

 具体の人であるよりも、国をヒトラーにたとえることができるところがあり、国の擬人化だ。国の擬人化は、国を実体のものであるとすることだ。ほんらいは、国は人ではないから、国はあるのではなくて無い。国が実体としてあるとするのは、国を擬人化しているのである。神さまを擬人化するのと等しい。非科学だ。

 世界の秩序を擬人化したものが神さまだ。近代では科学がすすむことで神の死にいたった。最高の価値の没落だ。価値の多神教となっている。国のことを、最高の価値のものだとしたのがヒトラーだろう。

 具体の人のことをヒトラーに例えたら、さしさわりがおきることがあるけど、国であればまずいことはないだろう。国であればまずいことはないから、どんどん日本の国のことを批判して行くようにしたい。

 ヒトラーがやったのは全体主義だが、いまの日本においてもそれと同じようなことがおきているところがある。全体化がおきている。それを脱全体化して行くようにしたい。ヒトラーは国の全体を代表しているようによそおったが、じっさいにはそうではなかったのがある。日本においても、与党である自由民主党が日本の国の全体を代表しているかのようによそおっているが、あくまでも部分しか代表していない。

 一つの国のまとまりのさっかくをもたらしたのがヒトラーだが、それと同じことが日本の国でも行なわれている。さっかくである国がもつ自己保存を絶対のものにした。国家の公を肥大化させて、個人の私を否定した。

 国家の公の肥大化では、国はその地域の暴力を独占しているので、いざとなったら暴力をふるえる。暴力をふるって言うことをきかせられる。個人の私を暴力によってしたがわせられる。

 具体の個人のところから離れてみると、まったくなんの脈絡やつながりもなく、菅元首相がヒトラーを例えで持ち出したとは言えそうにない。ヒトラーを持ち出すことは、いまの日本の国のあり方と、まったくなんの脈絡やつながりも持たないのだとは言えず、少なからぬつながりがおきている。

 まったく脈がないのではなくて、そこに何らかの脈を見いだすことができるのがあり、権威主義や、階層(class)の格差や分断や、虚無主義(nihilism)や退廃(decadence)がおきているのをとり上げられる。

 すでに片がついた答えではなくて、まだ片がついていない問いかけとしてあるのがヒトラーだと言えるとして、それをいまの日本の国のあり方を見るさいに用いてみたい。

 テオドール・アドルノ氏とマックス・ホルクハイマー氏による啓蒙の弁証法では、啓蒙が野蛮に転化することが言われている。理想郷(utopia)が逆理想郷(dystopia)に転化するといったことがある。正義が不正義に転化する。

 よいとしていたことが、悪いことに転化してしまう。よいことと悪いこととがきれいに割り切れるのではなくて、割り切れなくなっている。きれいに割り切ろうとしたのがヒトラーだが、そのことによってよいことが悪いことに転化した。啓蒙が野蛮に転化した。

 いまの日本では、啓蒙が野蛮に転化することがおきやすくなっていると言える。きれいに割り切れないことを、割り切ろうとするのが強まっている。よいのと悪いのや、味方と敵をきれいに分けようとする。きれいに割り切れるのだとする遠近法(perspective)をとることがおきている。

 遠近法では、ヒトラーが持っていたような遠近法に、日本の国は近づいていっているところがあるのはいなめない。遠いか近いかでは、ヒトラーとは遠いのではなくて、それに近づいていっているのがいまの日本の国だ。だんだんと近づいていっている。遠近法としてはそれが言えそうだ。右傾化していっているのである。

 国の中にはいろいろな遠近法をもつ人たちがいるが、その中でたった一つだけの遠近法しか許されない。それがヒトラーのあり方だったが、そのあり方に日本の国は近づいていっている。国がもつ遠近法しかよしとはしない。もともと日本の国にはそういったところがあり、人それぞれでいろいろな遠近法を自由にもつことをよしとはしないのが強い。

 かなりかってな読みとりではあるが、菅元首相が例えにおいてヒトラーを持ち出したのは、たった一つだけの遠近法しかよしとはしないのではなくて、人それぞれでいろいろな遠近法を自由にもつことをよしとするのを言っているのだと見なしてみたい。そうした価値を言っている。その価値を言ったのは、それとはちがう反価値に日本の国が向かっているのがあるからだ。

 一つの遠近法だけを絶対化するのが日本の国ではおきている。一つの遠近法が教義(dogma、assumption)や教条と化す。そこでいるのは、遠近法の相対化だろう。一つの視点による単眼ではなくて、いくつもの視点によって複眼化して行く。いまの日本の国は、単眼化に向かっていっている。それを改めて、できるだけ複眼化する方向にもって行きたい。

 参照文献 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『失敗の愛国心 (よりみちパン!セ)』鈴木邦男 『右傾化する日本政治』中野晃一 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一