維新の会と、反維新―維新の会への支持と、反維新への支持

 政党から、どうかつ訴訟をしかけられる。政党からにらまれる。芸能人などでそうした人が出てきている。

 お笑いコンビの浅草キッド水道橋博士は、野党である日本維新の会の政治家から、どうかつ訴訟をちらつかせられている。維新の会からにらまれた形だ。

 政党やその関係者が、有名人などにどうかつの訴訟をしかけることを、どのように見なすことができるだろうか。

 一つには、政党が虚偽意識になっていて、その虚偽意識にたいして批判を行なう。虚偽意識に批判を行なう人が、排除されることになる。排除されるさいに、政党からどうかつの訴訟をしかけられることがある。

 政党が虚偽意識になっているから、いろいろな悪さをかかえもつ。いろいろな穴があるが、それが見えないようにフタのおおい(cover)をしてかくす。フタのおおいがしてあるのを引っぺがして、穴がいくつもあることをさし示す。

 穴がいくつもあるのをさし示すのは、おもに政党の内ではなくてその外にいる人がになう。政党の中心ではなくて辺境や周縁の人がになう。外からのほうが穴が見えやすい。政党の内にいる人がそれをやれば、その政党の中から排除されることになる。

 神は死んだ。哲学者のフリードリヒ・ニーチェ氏はそれを言った。一神教の神は死んだ。神の死によって、最高の価値の没落がおきる。価値の多神教になる。一極ではなくて多極化して行く。

 野党である維新の会は、たとえそれなりより以上に支持が多いのだとしても、一極と言えるほどには強くはない。一極といえるほどに強いのであれば、神は死んでいなくて、最高の価値があることになる。維新の会は、あくまでも多神教における神の一つだと言えるのにとどまる。

 維新の会から好かれるのではなくて、にらまれる。反維新になる。維新に好かれるだけがすべてではなくて、たとえにらまれて反維新になったとしても、それですべてがおしまいになるとは言い切れそうにはない。多神教のあり方では、捨てる神あればひろう神ありとなる。

 維新の会を支持している人からしてみれば、維新の会に好かれたほうがよい。きらわれたりにらまれたりするのはよくない。何を好むのかでは、すべての人が維新の会を好んでいるのではないから、むしろ反維新のほうが好きだといった人もいる。反維新であればこそよいとする人もいる。反維新であればあるほどよい。

 政党は、日本の国のすべてを代表しているとは言えず、あくまでも部分しか代表していない。維新の会であれば、維新の会が日本の国のすべてを代表しているとは言えないから、全体化することはできず、支持されることもあれば支持されないこともおきてくる。すべての日本人が維新の会を支持したり好んだりすることはありえづらい。

 人間の体の血管でいえば、大動脈や大静脈といえるほどの太い血管であることはできづらい。細い毛細血管のようにならざるをえず、それぞれの人の好みが細分化する。維新の会は、太い血管であることはできず、細い毛細血管のようなものでしかない。

 いまの時代は、太い血管であることはできづらく、細い毛細血管のようになりやすい。維新の会は、太い血管といえるほどにあらゆる人から支持されたり好かれたりすることはできづらいものだろう。支持する人もいれば支持しない人もいるし、好む人もいればきらう人もいる。

 いっけんすると太い血管のようになっているのだとすれば、それが現実とは離れた虚偽意識になっているのをうたがえる。太い血管のようになっていても、それは虚偽意識であるのにすぎず、じっさいには細い毛細血管であるのにすぎない。細いのをあたかも太く見せかけているのである。太くはなくて細いのを、太く見せかけつづけるために、政党によるどうかつの訴訟などがしかけられる。

 政党からどうかつの訴訟をしかけられたとしても、太くはなくて細くなっているのがあるから、完全に駄目になったり道を絶たれたりすることになるとはかぎらない。維新の会であれば、反維新になったからといって、それによって完全に駄目になったり道を絶たれたりするとは言い切れそうにない。

 しょせんすべてのものは細いものであるのにすぎないから、たとえば昼があれば夜があり、天気では晴れがあれば雨があるといったように、正や陽があれば負や陰のものがある。正や陽だけがあるのではなくて、負や陰のものがつきまとっていて、正や陽のものだけで完結しているとは言えそうにない。光にたいする影のように、負や陰のものがあって、負や陰のものは影であるだけではなくて、それそのものがもう一つの光(影つまり光)にも当たる。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと)