与党対野党とはちがう、野党対野党から見えてくる、批判の必要性

 NHK の政治の議論の番組に、野党の政治家が出演した。野党の日本共産党やれいわ新選組の女性の政治家が出て、与党である自由民主党や、おなじ野党である日本維新の会を批判した。

 与党の自民党とともに、それだけではなくて、野党である維新の会もまた批判されることについてをどのように見なせるだろうか。与党の自民党だけではなくて、維新の会を批判することは意味があることであり、批判がもつ価値や意味あいがよりわかりやすい。

 野党は批判ばかりしているからだめだと言われるのは、おもに与党の自民党に対しての野党のあり方だ。それとはややちがい、野党の一部である維新の会を、おなじ野党であるれいわ新選組の政治家が批判をするのは、維新の会が一つの顔だけを持っているのではないことから来ているものだろう。維新の会は、大阪府で政治の権力をにぎっているから、政治の権力者としての顔ももつ。

 維新の会に対するれいわ新選組は、維新の会が虚偽意識に当たり、れいわ新選組がそれを批判する形になっている。これはちょうど、与党の自民党が虚偽意識であり、野党がそれを批判するのと同じ形であり、類似性がある。

 虚偽意識である点では、維新の会と自民党はたがいに類似性があるから、維新の会に対してれいわ新選組が批判するのに意味があるのと同じように、自民党を野党が批判するのにも意味がある。それぞれのあいだに類似性があるからだ。

 自民党や維新の会がやっていることの、なにもかもすべてが悪いとは言えそうにない。ぜんぶが悪いとは言えないが、いろいろに悪いことやまずいことがおきてしまっているのがあることから、それらの負のことをどんどん取り上げて行かないとならない。いろいろにある負のことが十分にとり上げられていないのがあり、それらの多くがとり落とされてしまっている。

 大阪府では、維新の会に任せていればあらゆることがすべて完ぺきにうまく行くとは言えないのと同じように、国においては、自民党に任せていれば何もかもが完ぺきにうまく行くとも言えそうにない。いろいろとうまく行っていないところや、悪くなったりまずくなったりしているところがある。それらの負のことが隠されていて、フタのおおい(cover)がされていて、遮へいされている。フタを引きはがすために、批判をすることがいる。

 フタをしつづけたままにしておくわけには行かないから、大阪府では、維新の会に対してれいわ新選組などが批判をすることがいるのと同じように、国においては、自民党に対して野党が批判をすることがいる。批判がなければ、フタをしつづけたままになってしまうから、虚偽意識がまかり通ることになってしまう。

 維新の会に対してれいわ新選組が必要ではないとは言えないのと同じように、国においては、自民党に対して批判を投げかける野党が必要ではないとは言えない。維新の会や自民党が力をもつのではなくて、それに対するものであるれいわ新選組などの野党がどれだけ力をもてるのかが大切だ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司