共産党と反共が含意すること―含意と、型(pattern)の思考

 反共の運動(campaign)が行なわれている。共産党はそう言っている。

 反共は悪いものであり、共産党はよい。そう言うことはできるのだろうか。

 悪いものなのであれば、それにたいして気をつけることがいる。反共が悪いものなのであれば、それに気をつけないとならない。

 良いものなのが日本共産党だから、それには気をつけないでよいのだろうか。気をゆるめてしまってもよいのだろうか。そうとは言えそうにない。

 たとえ良いところがあるのであったとしても、気をつけないでよいわけではないのが共産党だ。かんぜんに気をゆるめてしまって良いものではない。

 反共に当たるものの一つとして、政党でいえば与党の自由民主党をあげられる。そこで、自民党がなにを含意するのかを見てみたい。

 自民党が含意するものとしては、それにたいして気をつけないとならないのがある。すごく警戒することがいる。きやすく気を許してはならない。

 自民党にかぎらず、ひろく政党が含意するものもある。政党は、政治家の集まりだから、政治家に気をつけないとならないのがあり、そこから、政党にも気をつけないとならない。きやすく気をゆるめてしまわないようにする。

 あることがあることを含意するのは、あることが原因になって、ある結果がおきることだ。因果の関係だ。

 因果の関係はかなりきびしいものだ。二つの項(ことがら)が、原因と結果にきっちりと当てはまっていないとならない。原因が、結果を含意していないとならない。それをゆるめて、型(pattern)として見てみたい。型であれば、おおむねの傾向だ。だいたい、おおよそ当てはまるものだ。

 型として見てみると、反共はおおむね悪いものではあるけど、中には良いところもある。良いことを言っている人も中にはいる。

 共産党を型で見てみると、おおむね良いことを言ったりやったりしているけど、中にはそうではないところもある。悪いところやまちがっているところがまったくないわけではない。

 反共についてを含意で見てしまうと、反共だからぜんぶが悪いとしてしまう。含意でそうとらえてしまうと、そこには反例(反する例)がいくつか出てくることになる。反共だとはいっても、中には良いことを言っている人もいるから、それが反例になる。

 共産党を含意で見てみると、ぜんぶが良いのだとできそうではあるが、そうはできそうにない。中には良くないところがあるから、反例がある。

 ほかの野党にも同じことが言えて、たとえばれいわ新選組なんかでも、それを含意で見ることはできづらい。どこからどう見ても完全に良い政党なのだとは見なすことができない。含意で見てしまうと、中には悪いところやまちがっているところやおかしなところがあるから、反例を色々に見つけられる。反例がいくつも出てくることになる。

 政治家の集まりである政党を、かりに含意で見なすのだとすれば、それにたいして気をつけることがいるのがある。気を許せない。警戒をおこたってはならない。あらゆる政党にたいして、そう見なすことができる。

 政治家は国民の代理にあたる表象(representation)だ。国民そのもの(presentation)ではない。表象である政治家は、しばしばうそをつく。野党でいえば、れいわ新選組の政治家だからといって、うそをつかないわけではないし、共産党の政治家だからといって、うそを言わないわけではない。

 含意の因果の関係よりもゆるい、型で見てみると、たとえ反共だからといって、ぜんぶが悪かったりまちがったりしているとはかぎらない。共産党だからといって、ぜんぶが良かったり正しかったりするとはいえそうにない。とりわけ、共産党の中でも、政治家には気をつけないとならない。

 政党の中では、上の地位の人たちには、とくに気をつけることがいる。集団の中で、上の地位にいる人たちは、完ぺきに正しいとは言い切れない。集団では、上の地位の人たちが、何らかの(大なり小なりの)悪さを抱えていることが少なくないから、そこを批判することがいる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう)