選挙で共産党と組んでいっしょにやるのはまずいことだったのか―共産党の悪玉化

 野党である立憲民主党は、枝野幸男代表が代表をやめることになった。新しい代表を選ぶことがこれから行なわれる。

 枝野代表のさいには、選挙で日本共産党といっしょに組んで共闘が行なわれた。それへの批判の声もあり、共産党が政権に入る(関わる)ことへの否定の見かたもあった。

 枝野代表がやめて、新しい代表が選ばれたら、新しい代表の判断しだいでは、右寄りの野党である日本維新の会などと組むこともなくはないという。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 立憲民主党共産党と組むことについては、否定の見かたも投げかけられていたが、これについては、共産党がどうかとはちがう見かたがなりたつ。共産党がどうかとはちがって、日本の政治の全体のあり方がどうなのかを見なければならない。

 例えることができるとすれば、どろの沼地があって、そこにはすの花が咲いていると言える。どろの沼地は、いまの日本の政治の全体のあり方だ。日本の政治は、全体が右に右にと向かっていっていて、いまにいたっている。そのどろの沼地と化している中で、わりあいにまともだと言えるのが共産党であり、はすの花に当たる。

 共産党つまりはすの花がどうなのかではなくて、どろの沼地のほうにこそ目を向けるべきである。共産党のことをはすの花だとするのはややほめすぎかもしれないが、それは置いておくとして、共産党のことを否定として見ることによって、日本の政治の全体のあり方がどろの沼地と化していることが隠ぺいされてしまう。どろの沼地と化していることが遮へいされてしまう。

 何を否定として見なければならないのかといえば、共産党をそう見なすことがいるのだとは言えそうにない。共産党ではなくて、日本の政治の全体のあり方をとり上げるようにして、そこがおかしくなっていることをとり上げるようにしたい。

 悪くなっている点についていえば、右へ右へと政治の全体が向かっていっていていまにいたるのが日本にはあり、民主主義が原理主義に横すべりしていっている。民主主義による豊かなやり直し(redo)の機会がなくなっていて、やり直しがきかなくなっている。

 悪くなっているかどうかとは別の、枠組み(framework)の点でいえば、共産党つまり悪とする枠組みはいまではすでに古い。その枠組みは戦後の東西の冷戦のときには当てはまるところがあるものだったが、その賞味期限はすでに切れている。共産党(共産主義)つまり悪であるよりは、むしろ資本主義つまり悪のところが大きくなっている。

 資本主義の悪いところが、左派の社会民主主義(social democracy)によって少しだけ補われていることによって、かろうじて資本主義は命脈を保っている。社会民主主義を抜きにした資本主義だけだと、資本主義の悪いところがそうとうに強まり、それそのものがなりたちづらい。資本主義は資本主義だけではうまく行かない仕組みである。

 共産党のことを悪玉化するのは、修辞学でいわれるくん製にしん(red herring)のようなところがある。ほんとうにとり上げるべき論点がとり上げられずに、ごまかされてしまう。目くらましである。どこに深刻なまずさがあるのかといえば、それは共産党にあるのではなくて、日本の政治の全体のあり方にこそあると言えるだろう。

 参照文献 『右傾化する日本政治』中野晃一 『貧困と格差 ピケティとマルクスの対話』奥山忠信 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし)