政党と、秩序の志向―秩序と、排除や犠牲

 党の長を、民主によって選ぶべきだ。そう言った党の人が、党から除名された。日本共産党では、そうしたことが行なわれた。

 民主の手つづきで党の長を選ぶべきだと言った人を、党から除名したのは、正しいことだったのだろうか。共産党がやったことは、完ぺきに正当化や合理化できることなのだろうか。共産党がやったことについて、その正当性を問いかけることは、まったくいらないのだろうか。

 党の中の秩序を志向したのが共産党だと言えそうだ。党の中の秩序を保つために、何かを排除する。何かを排除することによって、党の中の秩序が保たれることになる。失われそうになった(失われていた)秩序が回復される。

 党の中の決まりがあるのはよいとして、党の外にも決まりがある。党の中の規則よりも、党の外の規則のほうがより上位のものに当たる。党の外の規則なのが、いまの日本の憲法だ。

 いまの日本の憲法を良しとしているのが共産党であり、そのことは良いことだ。良いことではあるけど、党の中の規則を重んじることによって、憲法をないがしろにすることになっているところがあるのが共産党だろう。

 党の内にも外にも規則があるなかで、それらのあいだの整合性がとれなくなっている。そのあいだの整合性をとるうえでは、党の外の規則である憲法を、より重んじることがいる。

 憲法をよしとするようにしつつも、党の規則をすごく重んじるようにする。そういうふうにしているのが共産党だけど、二重の基準(double standard)になっているところが見うけられる。外の話は外の話、内の話は内の話といったようになっている。自由主義(liberalism)からすると、二重の基準になっているのはよくないことだ。

 党の内と外の決まりを比べてみられるとすると、外の決まりのほうが、これをせよとかあれをせよ(これをするなとかあれをするな)といった決まりの数が少ない。憲法は、自由をよしとするのがあるからだ。

 党の外のものである憲法に比べると、党の内の決まりは自由をそこまで重んじていない。憲法ほどには自由を重んじていないのが、党の内の決まりだ。憲法よりも、これをせよとかあれをせよ(これをするなとかあれをするな)といった決まりの数が多いのである。何々すべからず、の数が多いのだ。

 何々すべからずの数が多くなると、自由主義から離れていってしまうおそれがある。集団主義になってしまうおそれがおきる。

 憲法は、自由をよしとするものであり、自由主義に根ざしている。何々すべからず、の数が少ない。そのいっぽうで、党の内の決まりだと、何々すべからずの決まりの数が増えてしまう。

 何々すべからずの決まりの数を増やすのがあるのだとして、そのさいに、いかに自由主義に根ざすことができるかがある。そこに気をつけるようにしないと、個人の自由を否定する決まりのあり方になってしまう。(個人を等しく重んじる)普遍のものではなくて、(ある集団だけの)特殊な決まりのあり方になってしまう。そういった点に気をつけることがいる。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳