差別の失言と、それについての誤解―誤解の有無を見てみる

 国民に、誤解をおこさせてしまった。それはよくないこと(いかんなこと)だった。岸田首相はそう言っていた。

 政権に関わる者が、失言をしたことについて、国民に誤解がおきたのだろうか。岸田文雄首相が言っていることは、正しいことなのだろうか。

 性の少数者を否定することを言ったのが政権の関係者だが、その失言は、一つの情報(message)に当たる。失言を言ったのがあるが、それについてを IMV 分析によって見てみたい。

 失言そのものは、一つの情報(message つまり M)であり、それについての岸田首相の発言も一つの情報(M)だ。

 日本語でいわれる誤解の語は、あいまいさがある。何が誤解であり、何が誤解ではないのかが必ずしもはっきりとはしづらい。どういうことであったとしても、何でもかんでも、それを誤解だと言ってしまえるような、意味の幅が広すぎるところがある。

 かりに誤解がおきたのだとして、なぜその現象がおきたのかがある。誤解の現象がなぜおきたのかを見て行くことがいるものだろう。その現象がおきた要因は、どこにあるのか、または誰にあるのか(送り手か、または受け手か)を見て行く。

 いくつかの情報があって、この情報については誤解の現象がおきたけど、それとはちがう別の情報については誤解がおきない。誤解がおきたのとおきなかったのとで、なぜそうしたちがいがおきたのかがある。そこが明らかにされることがのぞましい。

 誤解がおきたのであれば、情報(M)についての受けとり方である見解(view)がまちがっていたことをしめす。情報(M)と見解(V)とが合っていない。ずれてしまっている。

 あることをうたがうのであれば、情報(M)をそのまま丸ごとうのみにはしない見解(V)をとることになる。情報(M)と見解(V)とを合わせないようにして、ずらす。

 たとえどういった情報であったとしても、それについて誤解の現象がおきる見こみはつきまとう。ぜったいに誤解されることがないとは言い切れそうにない。たしかに正しく理解されるといったような、ぜったいの保証はない。あるていどは理解されて、あるていどは誤解されるといったような、理解と誤解が分かちがたく結びつき合っていて、混ざり合っていることがしばしばある。

 かんじんなことは、日本の国が言っていることを、そのまま丸ごとうのみにはしないようにすることだろう。できるだけ、国が言っていることについて、うたがうようにして行く。岸田首相が言っていることであれば、それをうたがうようにして行く。

 どういうことがうたがわしいのかといえば、性の少数者を否定することを言った、政権の関係者の失言がうたがわしいのだとは言えそうにない。その失言はうたがわしさはあんまりなくて、おそらくは関係者の本心によるものだろう。意図(intention)をそのまま言った。関係者の本心であるのとともに、自由民主党の考え方と合っている。失言には、自民党の価値観があらわれ出ているのだ。

 何がうたがわしいのかといえば、政権の関係者が言った失言ではなくて、その失言について岸田首相が言っていることだ。

 何が正しくないのかといえば、失言についての岸田首相の見解だ。まちがった見解をもっているのが岸田首相であり、そこにおかしさがある。失言について国民が誤解をしただとか、失言は政権の考え方とはまったくちがうだとかとしている、岸田首相の見解はうそのものだろう。

 より正しい見解としては、失言について国民に誤解はほとんどおきていない。誤解している人はほとんどいないだろう。失言でいわれていることは、政権の考え方と合っているものであり、自民党の価値観と合っているものだ。自民党(や政権)の価値観を代弁したら、それが失言になったのである。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『情報政治学講義』高瀬淳一 『考える技術』大前研一