国民に誤解をまねいたことを謝罪する与党の政治家と、信頼と不信―価値の枠組みの共有と非共有

 国民に誤解をまねいた。そのことについてを謝罪したい。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っていた。

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会の中で広がっている。その中で国民にたいしては複数の人数での会食を禁じているが、菅首相などの与党の政治家はそれを行なっていた。

 国民には禁じておきながら与党の政治家はそれを行なっていたことについて菅首相は国民に誤解をまねいたとしている。この菅首相の見なし方はふさわしいものなのだろうか。そのことについてを信頼の価値の枠組みや二重基準(double standard)や説明責任(accountability)によって見てみたい。

 国民に誤解をまねいたとするよりは、国民と与党の政治家とのあいだで二重基準になった。そのことによって国民と与党の政治家とのあいだの信頼が(よりいっそう)損なわれた。すべての国民についてそう言うことはできないが、その見こみがある。

 信頼が損なわれることになるのは価値を共有していないことによる。国民と与党の政治家とのあいだで価値の共有がなりたたない。共有できていないことがそのままになっていて放ったらかしになっている。とんちんかんに与党の政治家が誤解をまねいたことについて謝罪をしたところで価値が共有されることにはならない。なぜかといえば与党の政治家が的はずれなところで変な謝罪をしているからである。

 少しでも信頼を回復させて価値を共有できるようにして行く。そのためには自由民主主義(liberal democracy)による説明責任を果たして行く。いまの与党の政権は自由民主主義を壊してしまっているので信頼ができづらい。価値を共有しづらい。人それぞれによってちがいはあるものの、きびしく見ればそう見ることがなりたつ。政権が説明責任を果たしているとは言いづらい。

 二重基準になっているのがあるとすると、そのことによって信頼が損なわれて、価値の共有ができなくなる。それをそのまま放ったらかしにするのはよいことではない。二重基準でありつづけてしまう。普遍化できない差別をなくして行くことが自由民主主義ではいるから、それをするためにはまず二重基準をまねいたことを与党の政治家が認めて行く。それを認めずに国民に誤解をまねいたことを謝罪しても的を外している。すりかえになっている。

 二重基準になっているのをそのまま放ったらかしにしつづけていると信頼が損なわれて価値を共有できづらい。それがそのまま引きつづいてしまっているのがいまの日本の政治のありようだと見られる。きびしく見ればそう見られるのがあるとすると、少しでも壊されている自由民主主義を回復させるようにして行きたい。いろいろなところで二重基準になっているのがあり、普遍化できない差別が色々に行なわれている。政治の中でそれがあるとすると、それは国民が誤解していることによるのではなくて、与党の政治家の言動に主として責任がある。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)