日本の社会を変えないようにすることと、倫理観が欠けていること―倫理観をしめすことが欠けている

 同性どうしの結婚や、夫婦の別姓をみとめると、社会が変わってしまう。それだと良くないのだとしたのが、岸田首相だ。

 同性婚や、夫婦の別姓について、岸田文雄首相はどのように自分の考えを言うべきだったのだろうか。

 日本の社会を変えることになるような、革新(左派)によるようなことを、やりたがらない。やるのは良いことではない。やることにうしろ向きなことを言ったのが、自由民主党の岸田首相だった。

 革新つまり左のほうへと日本の社会を変えるのは良くないのだと言ったのが岸田首相だけど、それは、岸田首相の倫理観を言ったものではなかった。

 どういうような倫理観を岸田首相が持っているのかを言うべきだったのがある。倫理観としては、性の多様性を認めるとか、性の少数者の権利をどんどん高めて行くとか、女性の権利である女権(じょけん)をどんどん高めて行くのだとかがある。

 どういうような倫理観を持っているのかがあり、それをしっかりと外に向けてしめす。それをやらなかったのが岸田首相だけど、それをやるようにするべきだった。なぜそれをやるようにするべきだったのかというと、それをしめすことが、説明責任(accountability)や社会の関係(public relations)になるからだ。

 日本の政治では、言葉がこわれてしまっているから、政治で言われていることがうそであることが多くなっている。政治でうそがすごく多くなっているから、説明の責任が果たされないことが多いし、社会の関係がなされないことが多い。

 性の多様性についてでは、それをどんどん認めるようにするのが、ふさわしい倫理観だろう。岸田首相は、あとになって、そうした倫理観を少しだけ示したのはあるけど、日本の政治では、双方向性(交通でいうと双交通)や、自己の修正がないから、言っていることがうそになってしまいやすい。

 うそをつかないようにするべきなのは、倫理観の一つだけど、日本の政治ではそれがいちじるしく欠けている。それで、日本の政治には危なさがおきている。政治でうそがつきまくられていて、うそつまり(交通でいえば)言葉の反交通が多くなされている。

 げんじょうの日本の政治は、説明の責任が果たされていない。社会の関係がなされていない。それらがあるから、それらを改めて行くようにしたい。倫理観においては、しっかりとまっとうな倫理観を首相などがしめすようにすることがいる。

 性では、その多様性をみとめて、性の少数者の権利や女権をどんどん高めて行く。それとともに、うそをついてはならないのがあるから、うそはだめだとする倫理観をしっかりとしめすべきだ。

 うそである言葉の反交通はだめなことなのだとする倫理観をしっかりとしめすようにするのがいるのがあり、とりわけ国の政治の権力者はうそをつかないようにするべきである。政治で権力者がつくうそは、(ばあいによっては)かなりの危なさがあるからである。

 参照文献 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和