国葬と、法と、言葉(意味)―法の決まりを重んじるだけでもよかった

 犯人に殺されたのが、安倍元首相だ。それで国葬が行なわれることになっている。

 犯人に殺される事件がおきてから、国葬をやるようにするまでの、過程(process)において、どういう流れによるようにすればよかったのだろうか。

 流れとしては、こういう段どりにすればよかった。まず、何よりも、法の決まりを重んじる。そのうえで、さらに事件についてを意味づけしたいのであれば、反安倍にする。安倍晋三元首相の価値観とは、逆でやって行く。

 ふさわしい段どりとは逆のことをやっているのが岸田文雄首相だろう。

 岸田首相がやった段どりは、一つには、法の決まりを軽んじるものである。法の決まりを飛びこえて、国葬をやることを決めている。

 ことわざでいう、あぶはち取らずのようになっているところがある。まず何よりもいるものである、法の決まりを重んじることだけをやるのでも良かった。遵法(compliance)によるだけでも良かったけど、それができていないし、さらに、言葉を用いた意味づけも、やり方がおかしい。

 法と、言葉による意味づけの二つがあって、その二つをぜんぶやらなくてもよい。法によるだけでも良かった。法によるだけでも、遵法になるのだから、それだけでもまずいことにはならない。

 へんに言葉によって意味づけをしてしまっているから、法がないがしろになっているし、意味づけも変になっていて、どちらもちゅうとはんぱだ。

 へんに言葉によって意味づけをしないで、法によるだけにして、それで割り切るやり方もあっただろう。犯人に安倍元首相が殺された事件についてを、たんなる犯罪であると見なす。犯罪であるだけなのだから、法の決まりによってそれを片づけて行く。罪にたいするばつが定められているから、それにのっとってやって行く。

 国葬をやるかどうかについても、犯罪と同じように、罪にたいするばつといった形で決めて行く。こういう罪がなされたら、こういうばつを受けることになるといったように、こういう条件が当てはまれば、国葬をやることになるとして、法の形によって決めるようにする。

 この条件に当てはまりさえすれば、だれでも国葬がなされることになるとなっていれば、法の形になっている。そうではなくて、今回は特別に安倍元首相を国葬にするといったことだと、安倍元首相を特別あつかいすることになり、法の形からずれてしまう。誰にでも当てはまるのではなくて、安倍元首相だけに当てはまる法みたいなことになってしまう。

 事件がおきたことは、たんなる犯罪がおきたことだけど、そこになにか意味づけをするのであれば、安倍元首相とは反対の価値観である、反安倍によるようにするべきである。

 反安倍の価値観によりたくないのであれば、へたに言葉で意味づけをしないで、たんなる犯罪として事件をあつかうようにすればよかったのである。

 どうしても岸田首相が、事件についてを言葉で意味づけしたかったのだとすれば、安倍元首相の価値観によるのだとまずい。反安倍や脱安倍によらないとならない。そうでないと、言葉で意味づけをする意味がない。価値がない。

 反安倍や脱安倍によるようにして、安倍元首相が生きていたときになしたいろいろな不正や不祥事などを、てっていしてあらい出す。しらみつぶしに調べて行く。政治でなされた負のことをとことんまで明らかにして行く。そう宣言するべきだった。

 せっかく言葉を用いて意味づけをするのであれば、安倍元首相ができていなかった、言葉によるまっとうな政治をやって行く。説明の責任(accountability)をはたして行く。言葉の政治をしっかりとやって行くことが、反安倍や脱安倍につながるのだ。

 言葉の政治ができない、またはやりたくないのだとすれば、せめて、遵法でやって行く。その二つの、どちらもできていないのが岸田首相だろう。二つのどちらもできていなくて、それで国葬をやろうとしているのだ。

 参照文献 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太(そうた) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)