国葬と、時の淘汰(とうた)の圧―愛国の歴史観では、のちのちまで生き残りづらい

 すぐれた政治家だったのが、安倍元首相なのだろうか。国葬に値するようないだいな政治家だったのだろうか。

 評価づけをしてみるさいに、時間をくみ入れてみたい。時間の流れがあるから、過去、現在、未来への流れをもち出せる。

 いまの時点であっても、安倍晋三元首相への評価づけは、割れているところがある。分断しているところがあるのがいなめない。

 いったい、未来の日本人は、安倍元首相をどのように評価づけするのだろうか。未来の日本人は、安倍元首相を否定に評価づけするのではないだろうか。悪い政治家だったと見なす。その見こみが低くない。

 いまの時点では、安倍元首相のことが、さかんにとり上げられている。犯人に殺される前の、生きていたときにも、安倍元首相はさかんにテレビなどでとり上げられていた。かなり目だつとり上げられ方をされていた。

 かなり注目される政治家だったのが安倍元首相だが、目だつ(high profile)のは、価値があるかどうかとはまた別だ。目だっていても、価値が無いものは少なくない。目だっていなくて地味なもの(low profile)でも、価値があるものはけっこうある。

 目だってはいたが、だめだったのが、安倍元首相だった。そう見なしてみたい。目だっていたから、あたかもすごくすぐれた政治家であるかのようなあつかいを受けてはいたけど、そうではなかったのである。

 未来の、後世の日本人が、安倍元首相を否定に評価することのわけとしては、安倍元首相の歴史観にある。愛国の歴史観によっていたのが安倍元首相だが、愛国の歴史観は短期の利益を追うものだ。長期で見てみると、否定に評価される見こみがきわめて高いのが、愛国の歴史観なのである。

 短期の利益に走ってしまっていたのが、生きていたときの安倍元首相だろう。長期の視点がなかった。長期の視点をもっていないと、未来の日本人によく評価づけされづらい。

 長期の利益を得るようにするには、目先の利益に目がくらまないようにしないとならない。きちんと、法の決まりを守って行く。遵法(compliance)でやって行く。憲法の決まりをしっかりと守って行く。法を重んじることがいる。

 愛国の歴史観によってしまい、歴史修正主義になってしまうと、短期の利益を追うことになる。それだと、短期としては良いかもしれないが、長期で見たら日本の国をほろぼす。日本の国をだめにしてしまう。

 時の流れの圧があり、その試練にどれだけ耐えられるのかがある。時の試練に耐えるには、そうとうにしっかりとした中身を持っていないとならない。安倍元首相が、時の流れの試練に耐えられるだけの政治家だったのかといえば、(きびしく見れば)とうていそうは見なせそうにない。あとになって、否定に評価づけされるか、もしくはたんに忘れられてしまいそうだ。

 参照文献 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄