日本の政治においての、変数としての宗教―目のつけどころや着眼の点としての宗教

 韓国の新宗教(旧統一教会)は、日本の政治にとっていったいどういったものなのだろうか。どういったことを意味するのだろうか。

 目のつけどころや、着眼の点や、変数に当たるのが、韓国の新宗教だ。

 これまでは、変数がとり上げられなかった。韓国の新宗教のことが、おもてではとり上げられていなかった。

 安倍晋三元首相が殺される事件がおきたことによって、変数がとり上げられるようになり出した。韓国の新宗教のことが表でとり上げられるようになったのである。

 変数をもち出すか、もち出さないかでは、大きなちがいがある。変数をもち出さないと、あたかも与党の自由民主党が独力ですごい力を持っているかのようになる。

 自民党は、韓国の新宗教と深く結びついていて、それによって力を得ていた。政と宗がゆ着し合い、一体化することによって、力が大きくなっている。

 力が強くて、高く評価づけされていたのが自民党だけど、それは変数をもち出さないことによってなりたつものだ。変数をもち出さなければ、政と宗のゆ着が見えてこないから、自民党が高く評価づけされることになる。

 どうして自民党が力が高くて、強いのか。どうして自民党は高く評価されているのか。そこをもうひとつしっくりと説明しつくせなかった。ふかかいなところが残っていた。よくわからないところが残ったのである。変数をもち出していなかったからである。

 なぜそうなのか(why so?)と、だからどうなのだ(so what?)があるけど、この二つの問いかけを自民党に投げかけてみるさいに、変数をもち出すと、つじつまが合う。しっくりと来る。説明がつきやすくなる。韓国の新宗教と交通していたから、自民党はあれだけ強かったのである。一つの理由としてはそうとらえられる。

 へんな力を持っていたといったふうであり、へんに強かったのが自民党だ。相対であるよりも、絶対として強いみたいなふうだった。へんなところがあったけど、その過剰な力のよって来たるところは、韓国の新宗教から来ていたところが大きかった。変数をもち出してみるとそれが明らかになってくる。

 呪われた部分に当たるのが、韓国の新宗教だ。呪われた部分をかかえ持つことによって、力を得ていたのが自民党である。変数をもち出さないようにしつづけられれば、過大化しつづけられるけど、安倍元首相が殺される事件がおきて、変数がおもてでとり上げられ出した。過大化(拡大)の極から過少化(縮小)の極へと転じるきざしがおき出している。

 変数がもち出されるようになったから、それが一つの画期(epoch-making)となった。認識においての断絶の点がおきることになったのである。断絶の点がたしかにおきたのだとすれば、それ以前にはもはや戻れない。変数をもち出さないでいたときには戻れない。回帰できない。認識のあり方が変わったのである。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学』諏訪正樹(すわまさき) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司