国葬と、古さ―日本の古いあり方がわざわいしている

 反対の声が、少なからずあるのが、安倍元首相の国葬だ。

 反対の声がそれなりにあるのは、あらためて見るとちょっと意外な気もする。

 なぜ、そこそこの反対の声が、安倍晋三元首相の国葬にはあげられているのだろうか。

 新しいのと古いのの二つがあって、安倍元首相は、古いあり方だった。この古いあり方が、良しとされるもとにもなり、批判されるもとにもなる。

 新しいあり方は科学だけど、古いあり方は非科学だ。

 新しいあり方は、近代の脱魔術化だ。古いあり方は、(前近代の)再魔術化だ。

 古いあり方としては、日本における御霊(ごりょう)信仰や、互酬(ごしゅう)性や、文学でいわれるカーニヴァル理論などがある。

 御霊信仰は、日本に古くからある信仰だ。死んだ人をとむらい、死者のごきげんを取って行く。悪さをもたらす霊になりかねないのが、転じて、良いことをもたらす霊になってくれる。死者だけではなくて、生者にも当てはまる。生者のごきげんを取って行く。

 互酬性は、利益のやり取りを行なう。持ちつ持たれつのあいだがらになる。互いの利益の交通だ。

 カーニヴァル理論は、冬の王がいて、それを倒すことを目ざす。冬の王をやっつければ、春(夏)がやって来る。いまは冬だけど、冬の王(物価安、憲法など)を倒しさえすれば、春が来るのだとする。

 王殺しや、殺される王の主題があるのが、カーニヴァル理論だ。王が戴冠(たいかん)されて、そのごに、奪冠(だっかん)される。殺される。王が殺されることで、あり方が新しく更新されることになる。

 犯人に殺されたのが安倍晋三元首相だが、安倍元首相が生きていたときは、古いあり方が(安倍元首相にとっては)よくはたらいていた。古いあり方によって、日本の中心にくんりんしていたのが安倍元首相だった。

 事件がおきて、安倍元首相が亡くなったことによって、古いあり方と新しいあり方がぶつかり合う。そのぶつかり合いがおきていて、あんがい、新しいあり方が力をもつ。古いあり方への批判がそれなりにおきているのだ。

 古いあり方(conservatism)によっていたのが安倍元首相であり、新しいあり方(progressivism)は力がなかった。安倍元首相が亡くなったことで、新しいあり方が、それなりに力を持つようになっているところがある。

 生きていたときの安倍元首相は、古いあり方によっていて、それがうまく行っていた。古いあり方によって日本をぎゅうじっていたのである。安倍元首相が亡くなっても、そのあり方がそのままつづきそうだったけど、あんがいそうでもない。あんがい、古いあり方が、ずっとつづいて行くとは言い切れず、連続して行かないおそれがある。

 国葬をやるのは、古いあり方をよしとすることになる。安倍元首相をよしとするのは、古いあり方をよしとするのにひとしい。古いあり方によって良しとされていたのが生きていたときの安倍元首相だけど、それが死後にまで通じづらくなっているところがある。生きていたときに、あまりにも古いあり方が通じすぎた。新しいあり方を、抑圧しすぎた。抑圧しすぎて、反動が形成されて、いま反動がおきているのかもしれない。

 亡くなる前の、生きていたときからすると、いまにおいても、古いあり方がもっと通じていてもおかしくはない。古いあり方がずっと通じてもおかしくはないから、岸田文雄首相はそれを見こした。それを当てにした。ところが、当てがはずれてしまったところがある。やや読みちがえた。そこにちょっと意外なところがなくはない。

 参照文献 『鼎談書評 固い本 やわらかい本』丸谷才一 山崎正和 木村尚三郎丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一