儀式としての国葬―儀式の必要性をうたがってみる

 殺された安倍元首相の国葬をやることはいるのだろうか。

 国葬をやることは、いらない。そう見なしてみたい。

 なぜ国葬をやることがいらないのかといえば、それが儀式だからである。

 儀式では、冠婚葬祭がある。葬は、お葬式をやることだけど、それはやらなくてもよい。行なわなくてもよい。

 お葬式などの儀式は、葬儀屋などがお金をもうけることになる。商売であるところがある。

 結婚式であれば、式をになう業者がお金をもうけることになる。商売で利益をあげることがねらわれる。

 政治でいろいろな不祥事をしでかしたのが安倍晋三元首相だが、それを抜きにしたとしても、国葬は、儀式であることから、やることがいらない。不要のものである。

 かりに、安倍元首相が、とんでもなくすばらしい政治家であったのだとしても、国葬を行なうことは、いらないことである。すごく良い政治家だったのだと仮定したとしても、やらなくてもよい儀式は、できる限りやらないほうがよい。

 国葬にかぎらず、いろいろな儀式があるけど、やらなくてよいものなのであれば、やらなくてもよい。儀式は、形(形式)によるものだから、形だけあっても、中身が欠けているのであれば、意味がない。それよりも、形はなくても、中身が充実していたほうがよい。

 みんなが同じ気持ちで、儀式にのぞむのだとはいえそうにない。国葬には、ほかの国の人たちをまねくみたいだけど、ほかの国の人たちが、安倍元首相に関心を持っているはずがない。

 安倍元首相は、世界でそんなに知名度はない。日本は、世界の中では、中心にあるのではなくて、辺境(周縁)の極東の島国だから、目だたない国である。世界の中心にあるような国ならともかく、辺境の国である日本の政治家だった安倍元首相に、世界の人たちがそんなに関心を持っていたとは考えづらい。

 へんな儀式になってしまいそうなのが、国葬だ。世界のいろいろな国の人たちをまねくのにしても、その人たちは、安倍元首相への関心はうすい。関心があるのだとしても、利害や打算がすごくからんでいる。計算がはたらいている。

 関心がうすいから、ほめたり持ち上げたりする。関心が高かったり深かったりすれば、その人の悪いところも見えてくるから、その悪いところへきびしく言うこともときには必要だ。安倍元首相にたいして関心が高かったとしたら、悪いところにたいしてのきびしい批判が欠かせない。

 距離が近すぎもせず、遠すぎもしない。距離が近すぎると、安倍元首相と一体化してしまい、対象化することができない。距離が遠すぎると、関心がうすくなり、関心が届かない外部に置かれる。関心が届かない外部は、とくにどうでもよいものである。

 一体化してしまうのではなくて、適した距離をもち、対象化するようにする。関心をもつからこそ、きびしい批判を投げかけて行く。安倍元首相への関心の持ち方としては、それがふさわしいのが一つにはある。(じっさいに安倍元首相と友だちなわけではないけど)友だちだからこそ、きびしい批判も言うといったあり方だ。

 国葬は、純粋で、きれいな儀式になるのではなくて、不純で、汚いものになる。いろいろなよこしまな思わくがうごめいている。安倍元首相のことは、放ったらかしになってしまい、二の次になる。安倍元首相を利用するかたちになり、ほかのことがねらわれる。

 いかに、自分が利益を得られるのかが、ねらわれる。安倍元首相の方向を向いていなくて、ほかのところに気が向いているような、不純な動機をもった参加者たちによる儀式になりそうなのが、国葬だ。政治には、汚さがつきまとうから、どうしてもそうなってしまいそうだ。

 参照文献 『葬式は、要らない』島田裕巳(ひろみ) 『情報生産者になる』上野千鶴子