国葬と、記号としての安倍元首相―表象(representation)としての安倍元首相

 国葬にされるのが、安倍元首相だ。

 記号として、殺された安倍晋三元首相を見てみるとどういったことが言えるだろうか。

 ずれがおきやすい記号と、おきづらい記号がある。差異性によるのと、同一性によるものだ。

 記号として見てみると、同一性によるものではないのが安倍元首相だ。

 同一性によるものであれば、ずれがおきづらいから、みんなが一つの見なし方をとりやすい。

 記号としては差異性によるものなのが安倍元首相なので、どういった政治家だったのかの見なし方が人それぞれによってちがってくる。

 同一性による記号であれば、定項だから、値が定まっている。安倍元首相といえばこうだといったことが安定している。

 差異性による記号は変項であり、値が定まっていない。一つの役を、色々な役者の人が、色々に演じられる。音楽でいえば、一つの曲の楽譜を、色々な演奏者の人が、色々なしかたで演奏できる。

 この役であれば、この役者の人の、この演じ方が絶対だ、とはできづらい。この曲であれば、この演奏者のこの演奏が絶対だとはできづらい。

 安倍元首相のことを、役として見てみると、その役を演じていたのが生きていたときの安倍元首相だった。

 本人が、役としての安倍元首相を演じていたが、それをとらえるさいにも、人それぞれによってとらえ方がちがってくる。それぞれの人が、役者または演奏者となるところがあり、どのように役をとらえて演じるのかや、どのように楽譜をとらえて演奏するのかが、ちがってくる。みんなが同じ一つの見なし方をするのではない。

 国葬をよしとするのであれば、それをよしとする人たちにおいては、記号のとらえ方が共有される。安倍元首相はすぐれた政治家だったとするとらえ方がその範囲の中ではとられることになる。

 本人としての安倍元首相であるよりは、(安倍元首相の本人が、安倍元首相の役を演じていたのがあるので)この役者の、またはこの演奏者の、この演じ方、またはこの演奏のしかたが好みだ、といったことになる。本人そのものをとらえているのではない。

 国葬をよしとしないのであれば、安倍元首相にたいして批判をもつことになり、きびしい見なし方がとられる。そのきびしい見なし方は、安倍元首相の本人そのものをとらえたものであるとは言い切れそうにない。本人そのものであるよりは、この役者のこの演じ方、またはこの演奏者のこの演奏のしかたはこうだった、とすることになる。

 人それぞれによって、安倍元首相についてを、色々に見なせるのがある。安倍元首相が、差異性による記号であるのをしめす。一つの役や、一つの楽譜を、いろいろな演じ方や、色々な演奏のしかたであらわせるのと同じようなことになる。

 ずれがおきざるをえないのが、記号としての安倍元首相だ。かみ合わなくなる。すり合わせることができづらい。交わり合いづらい。一つの記号について、お互いに話を合わせるには、その記号についての見なし方が合ってないと、話が合いづらい。

 いっけんすると同じ話をしているようでいて、ちがう話をし合っているようなふうになる。同じものを見ているようでいて、ちがうものを見ているようになり、ちがう現実を見ているようになる。

 それぞれの人が、安倍元首相の本人を見ていたのではなく、テレビなどに映された安倍元首相の虚偽の像(加工された像)を見ていた。生のものではなくて、疑似(ぎじ)のものを受けとっていた。

 生の現実であるよりも、虚偽や疑似の現実を生きているのがあり、ほんとうのところは、安倍元首相の本人がどうだったのかは、知るすべがない。はたして、安倍元首相がほんとうに実在していたのかどうかも、確かめることができづらい。実在をたしかには実証しづらいのがある。

 参照文献 『記号論』吉田夏彦 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『象の鼻としっぽ コミュニケーションギャップのメカニズム』細谷功(ほそやいさお)