日本の政治で、薬としての(新)宗教の常用と、薬への依存や中毒―薬が毒に転じる

 日本の政治において、韓国の新宗教(旧統一教会)はいったいどういったものなのだろうか。

 薬に当たるのが、韓国の新宗教だった。薬に手を出したのが、自由民主党だった。

 薬が薬のままでありつづけるのではなくて、それが毒に転じた。薬と毒の転化(pharmakon)がおきたのである。

 韓国の新宗教と関係をもつのは、薬に手を出すことだった。自民党と韓国の新宗教が、交通をし合うのは、自民党にとっては、薬を得ることになった。

 ありがたい薬だったのが、韓国の新宗教だけど、それがのちに毒に転じることをくみ入れないとならなかったのである。

 自民党の外にあるのが、韓国の新宗教だけど、自民党の中にも、薬に当たるものがあった。自民党の中で、薬に当たるものとして、安倍晋三元首相がいたのである。

 安倍元首相は、自民党の中で、薬の中の薬に当たった。その薬に、自民党の中の政治家は、みんながすがった。ありがたい薬だとして、安倍元首相をよしとした。薬の効き目は、かなり強かった。薬効が高かった。

 薬としての作用がそうとうに強かったのが安倍元首相だったけど、そのいっぽうで、反作用や副作用もまた強い。反作用や副作用がおきてしまうから、薬が毒に転じてしまう。

 ききめが強くて、みんなが良しとしている薬だから、それが疑われることがなかった。薬は薬のままでずっとありつづけるのにちがいないのだとされた。薬をとっていると、しだいにそれが毒に転じてしまい、毒におかされていってしまうとは、危ぶまれることがなかった。

 ききめが強いからこそ危ないとか、ききめが強いからこそ悪いのだといったこと(薬を批判するようなこと)を言えば、それが毒に当たることになる。自民党の中では、毒に当たるものが、許容されなかった。毒はあってはならない。薬だけしかあってはならなかったのである。

 たしかに効き目がある薬だけによっていたのが自民党であり、毒が許容されなかった。薬だけしかないあり方は、不健全であり、毒もなければならなかった。政党の中に、毒があることで、つり合いがとれるようになる。政党の中で毒が排除されてしまったので、不つり合いになった。

 毒があれば、それがあとで薬に転じることが見こめるから、あとになれば薬を手に入れることにつながる。自民党には、科学のゆとりがなかったので、あとでではなくて、いますぐに、強い薬を手に入れなければならないのだとされたのである。あとでなどといったようなゆうちょうなことは言ってはいられない。

 はじめから、自民党にとっての毒に当たるものだったのが、韓国の新宗教なのではなかった。はじめから毒だったのが安倍元首相なのではなかった。それらは、たしかに効き目がある薬だったのである。とりわけ、安倍元首相は、いまだに自民党の中では強い効き目がある薬だとされつづけている。

 安倍元首相は、自民党においては、そうとうに強い、確かな効き目がある薬にあたっていたのはたしかだ。その薬があったから、それだけあればよいのだとされた。毒が許容されず、排除された。毒を排除してしまったので、毒があとになって薬になることがのぞめなくなっている。

 自前で薬が手に入らなくなっていて、毒におかされているのが、いまの自民党だと言えそうだ。解毒することができないくらいに、毒におかされているていどが深刻になっている。あまりにも薬に頼りすぎてしまったのがあだになっている。毒を排除してしまったことがわざわいしている。

 薬を薬であると基礎づけたりしたて上げたりしすぎたのがあり、毒を毒だと基礎づけたりしたて上げたりしすぎたのがある。薬が毒になったり、毒が薬になったりすることがくみ入れられなかった。反基礎づけ主義にするようにして、韓国の新宗教を毒だと見なしたり、安倍元首相を毒だと見なしたり、議会の内や外にいる野党などの反対勢力(opposition)を薬だと見なしたりすることがあればよかった。

 もしも、反基礎づけ主義によっていて、薬だけではなくて、毒も許容されていれば、多元や多様にできた。現実の自民党は、薬だけしか良しとはせず、毒を排除したので、一元や一様になったのである。一元や一様だと、いざとなったときにもろい。一重(いちじゅう)の支えしかない。多重の支えがないのである。支える点が一つしかないから、いざとなったさいに安定性がない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹