国葬が行なわれることになっている安倍元首相は、何を代表していたのか―全体は非真実である(テオドール・アドルノ)

 殺された安倍元首相は、何を代表していたのだろうか。

 日本の国の全体をくまなく代表していたのが、安倍晋三元首相だったのだろうか。

 殺されたときは首相ではなくて、いち政治家にすぎなかった。

 もっとも力が盛んだったときの、首相の地位にいたときですら、安倍元首相は日本の全体を代表してはいなかった。日本の部分しか代表していなかったのである。

 与党である自由民主党の長だったのが安倍元首相だが、政党(political party)は、部分(part)によるものであり、日本の全体を代表するものではない。

 国民そのものではなく、表象(representation)だったのが安倍元首相である。政治家は、国民の代理だから、国民を置き換えたものだ。

 代理つまり表象であるのが政治家だけど、それにくわえて、国民の全体を代表するものでもなかった。表象であり、なおかつ、全体を代表せず、部分しか代表していなかったのが安倍元首相だ。もっとも安倍元首相が力をもっていた、首相の地位にいたときですらそうだった。

 政治家は表象にすぎないから、きびしい批判がなされることがいる。権力への監視がいる。権力者がうそをつくと、損や害が大きなものになる。

 政治家はうそをつくことがしばしばあるが、それは表象であることから来ているものである。表象への批判、つまり権力の監視がなされなかったために、うそをつくことが多かったのが安倍元首相だった。表象への批判が欠けていたから、権力者がうそをつくことが多くおきたのである。

 たとえ殺されたからといって、安倍元首相の国葬をやってしまうと、いくつかのまずさがおきる。国葬には、正つまり順機能(function)だけではなくて、負つまり逆機能(dysfunction)があることはいなめない。

 たんなる表象にすぎなかったのが安倍元首相であり、国民そのもの(presentation)よりも、表象を重んじてしまうと、やっていることがあべこべになる。

 かりに表象である安倍元首相を重んじるのにしても、国民の全体を代表しているのではなくて、部分を代表するものでしかなかった。全体を代表していたかのようにすると、全体主義におちいることになる。専制におちいる。

 みなもとに、国民そのものや、有権者がいるとして、そこからけっこう離れたところにいたのが安倍元首相だった。みなもとにすごく近かったのではなかった。政治家は表象にすぎないから、みなもとから距離が離れざるをえない。

 みなもとには、たくさんの国民や、たくさんの有権者がいるけど、そのうちの部分しか代表していなかったのが安倍元首相だった。自民党の長であったけど、自民党は政党の一つだから、日本の部分を代表するのにとどまるものである。

 表象であることから、政治家はうそをつきやすいけど、それがいかんなくあらわれたのが安倍元首相だった。権力への監視がなされなかったからである。表象への批判が欠けてしまっていた。表象であることからくる悪さ(うそをつきやすいこと)が、軽んじられていた。

 国民そのものと、その表象(安倍元首相)とが、転倒してしまい、あたかも表象が上に立つかのようになってしまった。あべこべになったのである。表象である安倍元首相が全体化されてしまっていたのである。

 表象であるところからくる、政治家がうそをつきやすいことと、全体化されていたことからくるうそがあった。全体を代表していなくて、部分しか代表していないのに、全体を代表しているかのようにしていたのが、うそだった。複合の、複数のうそがあったことがわかる。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『政治家を疑え』高瀬淳一 『うその倫理学』亀山純生(すみお)