国葬に値する人と、値しない人との、決定の不可能性―国葬に値するのか、値しないのかが、はっきりとしない

 首相が、国葬に値する。それに値するのか、それとも値しないのかがある。

 首相や政治家が、国葬に値するのか、それともしないのかを、どうやって分けたらよいのだろうか。

 国葬に値する政治家と、値しない政治家を、分けづらい。分けられない。値するのと、値しないのとのあいだに引かれる分類の線が、揺らいでいるのだ。

 殺された安倍晋三元首相は、首相である期間が長かった。だから国葬に値するのだとされているが、それはていどのちがいにすぎないものだろう。

 首相だった期間が一日であるのにせよ、一〇年であるのにせよ、それはていどのちがいにすぎず、大局で見ればどちらもいっしょだとも言える。

 地球の歴史は四十六億年くらいあるから、それからすると、人間の一生はほんの一瞬だ。まばたきを一回やるくらい、または新聞の紙面を一ページめくるくらいで終わってしまう。

 長さのちがいでは、長いのよりも、むしろ短いほうが良いともできる。ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーのような悪い政治家が、国の長になったとして、長く地位にとどまりつづけるよりも、一日くらいの短さで地位を退いて辞めたほうが、国のためになる。

 安倍元首相が、かりに悪い政治家だったと仮定すると、首相でいつづけた期間が長いよりも短いほうがよかった。

 一般論で見たとしても、一般的にいって、首相の地位に長くいすわりつづける政治家よりも、すぐに辞めてしまう政治家のほうが、よい政治家だろう。

 すぐに辞めてしまったほうが、ほかの人に首相の地位をゆずれるのだから、良いことをしたことになる。すぐに辞めてしまったほうが、悪い政治家が国の長になって悪いことをすることを防ぎやすい。

 すごいきちんと政治の仕事をしたら、その首相は短命で終わる。短命で終わってしまうのは、二十四時間の、すべての時間を、全力を出して政治の仕事をなすことによる。自分のもっている力をすべてそそいで政治の仕事にとり組むから、力を抜くことがまったくなく、体も心も消耗しつくす。消尽(しょうじん)や蕩尽(とうじん)である。

 安倍元首相の国葬が行なわれることになっているのは、安倍元首相が蓄積のあり方だったことによる。蓄積のあり方ではなくて、消尽や蕩尽のあり方によっていたほうが、日本の国のためになった見こみがある。

 すごい政治家だったのが安倍元首相だとされているけど、それは蓄積のあり方だったことによるから、見かたによってはほめられたものではない。消尽や蕩尽のあり方のほうが、ほめるのに値した。消尽や蕩尽によっていたら、その政治家は国葬をやるのに値するのだとはされないけど、そういった政治家のほうがえらいのである。

 消尽や蕩尽が、捨て身になって政治の仕事にとり組むあり方だ。政治の世界で、自分の手がらなどを蓄積して行かない。自分の評判や評価を蓄積して行かない。自分は悪く言われてもよいのだとして、自尊心や虚栄心をもたないようにして行く。

 人ではなくて、国でいっても、その国が良く言われるのをのぞむのは、蓄積のあり方だ。そうではなくて、消尽や蕩尽のあり方のほうがえらい国である。他(他国)からの批判に開かれていて、国を自由にどしどし批判できるのが良い国だ。その国が良く言われたいとのぞむのは、人でいえば、自尊心や虚栄心が強いことであり、悪いあり方だ。

 蓄積のあり方によっていて、自尊心や虚栄心が強かったのが安倍元首相であり、国葬に値する政治家なのだと見なされている。生前に蓄積をしつづけていたから、国葬に値するのだとされているけど、それは良い政治家のふるまいだとはいえないものだった。

 自分の手がらだとはせずに、手がらを他の人にぜんぶゆずってしまう。手がらを他の人にぜんぶあげてしまう。悪いことがあったら、他の人(や民主党など)のせいにはせずに、ぜんぶ自分のせいだとする。

 自分の持っている力などをすっかりと使い尽くして、自分が力を失ってしまうくらいの、消尽や蕩尽であるほうが、良い政治家だと言えた。そんなに大きな評価を受けないような、目だたない政治家であれば、国葬には値しないのだとされるけど、そのほうが良い政治家だろう。

 参照文献 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『法哲学入門』長尾龍一