国葬と、利害の関心―純粋さの危なさと、不純な利害

 国葬をやるのは当たり前だ。やらなかったらばかだ。

 自由民主党の元幹事長はそう言っていた。犯人に殺されたのが安倍晋三元首相だが、その国葬をやるのはとうぜんだと言う。

 国葬をやるのは、ごく当然のことなのだろうか。

 話題としてとり上げられているのが国葬だけど、そこを任意にしてみたい。任意にしてみると、何々(あること)をやるのは当たり前であり、それをやらなかったらばかだ、となる。

 任意のところに、戦争をもち出してみると、こうなる。戦争をやるのは当たり前であり、それをやらなかったらばかだ。戦前の日本は、そのようにして、戦争につき進んでいったものだろう。

 近代の、とくに後期に入っているのがいまの時点であり、そこにおいては、何ごとも当たり前だとはいえそうにない。大きな物語は成り立ちづらく、小さな物語しか成り立ちづらい。色々なものごとが、当たり前ではなくなっているのである。色々なものごとに、人為や人工の構築性があるので、たくらまれていたり、しむけられていたりする。

 自民党の元幹事長が言っていることには、政治性や作為性や意図性がある。国葬をやることを、あたかも自然なことであるかのようにあつかう。本質化や自然化しようとしている。それが自然なことであるかのようにする、神話作用をはたらかせる。

 それぞれの人にはそれぞれの利害関心があるから、そこから認識が導かれることになる。認識を導く利害の関心だ。客観であるよりも、主観の認識になる。

 やるべきだとする声だけではなくて、やるべきではないとして反対する声も少なからず言われているのが国葬だ。反対の声があるのは、かくあるの実在(sein)のところにおいてだ。

 自民党の元幹事長が言っていることは、実在のところではなくて、かくあるべきの当為(sollen)のところでのものだ。

 かくあるべきの当為は、意味づけや価値づけによる。意味づけや価値づけは、それぞれの人の主観による。国葬をやるべきだと意味づけることもできるけど、そのようにして、何々でなければならないのだとする意味づけは、絶対のものではない。あくまでも一つの意味づけのしかたであるのにとどまる。

 やらないほうが良いとか、やったほうが良いとかと言われているのが国葬だが、かりにやらなかったとしても、またやったとしても、客観や本質として悪いのだとはいえそうにない。とりたてて国葬にたいして何の関心もなくて、やってもやらなくてもどうでも良いとしている人もまたいるだろう。

 どこに重きを置くべきなのかといえば、かくあるべきの当為に重みを置くべきだとはいえそうにない。そこにではなくて、かくあるの実在のところに重みを置くべきだろう。

 実在のところを重く見るようにして、人それぞれでいろいろな意見を自由に言えるようにする。自由の気風があるようにする。たとえ少数の意見であっても、それを尊重して、だいじにあつかう。そうしないと、(百歩ゆずって)国葬をやるのにしても、そこに正当性があるとはいえそうにない。かくあるの当為でやってしまうと、戦前に、戦争に向かってつき進んでいったのと同じようなことになりかねない。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦構築主義とは何か』上野千鶴子編 『政治って何だ!? いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ』佐藤優 石川知裕 『情報政治学講義』高瀬淳一