国葬の、うわべのよそおい―よそおったのと、生のすがたの、どちらも見てみる

 これから行なわれることになっているのが、安倍元首相の国葬だ。

 どのようによそおわれることになるのが、国葬なのだろうか。

 よそおわれたすがたとしての国葬と、そのじっさいのところとを、どちらも見てみたい。

 何も批判をしなければ、よそおわれたすがたとしての国葬のままだ。それに批判をすれば、じっさいのところが浮かび上がってくる。

 あたかも国の全体の集合(総合)であるかのようなのが、よそおわれた国葬だ。そのじっさいのところは、部分の集合にしかなっていない。

 閉じているものなのが、よそおわれたすがただ。そのじっさいのところは、開かれている。

 生きていたときの安倍晋三元首相は、日本の国の全体を代表しているかのようだった。それはよそおわれたものにすぎなかった。じっさいには、日本の国の部分しか代表していなかったのだ。

 生きていたときと同じように、国葬にされるさいにも、そこで国と言ってしまっているから、あたかも国の全体を代表したもよおしであるかのようだ。それをよく見てみると、国の部分しか代表できていないのである。

 自由民主党は、政党(political party)の一つだけど、政党は部分(part)によるものだ。国がやるようにするのではなくて、政党が安倍元首相のお葬式をやるようにしたほうが、じっさいのあり方に近づきやすい。

 国がやるのだと、国の全体をおおうことになってしまうけど、それよりも、部分にとどめたほうが、じっさいの姿に近づく。たとえ国の全体をおおうようにしようとしたとしても、それはできることではなくて、部分しかくみ取れない。

 全体によるものなのではなくて、部分によるものなのが、生きていたときの安倍元首相だった。自民党もまた、部分によるものだ。部分の集合として、安倍元首相のお葬式をやったほうが、まだしもじっさいの姿に近い。国の全体によるのは、むりがある。

 すごい良い政治家だったのが、生きていたときの安倍元首相だと見なす。国葬ではそうしたあつかいをすることになる。閉じたあり方だ。閉じているようによそおわれるけど、じっさいには開かれている。

 閉じているあり方だと、これはこうなのだとするのが、一つに定まる。固定化される。そこにはぶれや揺れがないけど、安倍元首相についてをよく見てみると、開いたあり方になっている。閉じたあり方にはできづらい。

 日本の国のためになることをしたのが、生きていたときの安倍元首相だったのか、それともためにならないことをしたのかが、よくわからない。明らかに、日本のためになることをしたとは言い切れそうにない。断言できづらい。

 もしも、日本の国のためになることをやった政治家だったのが安倍元首相なのだと言い切れるのであれば、閉じたあり方だ。そう断言できれば、閉じているけど、それを強調すると、誇張になるし、うそになる。

 誇張して、安倍元首相がいかにすぐれた政治家だったのかが言われることになりそうなのが国葬だ。それは閉じたあり方によるものだけど、悪いところも色々にあったのがあるから、開かれているのが本当のところだ。

 死を、日本の国のために意味づけする。そのために行なわれるのが、安倍元首相の国葬だろう。死を日本の国の回路に入れて、有用性の回路に中に位置づける。そこにはむりがあるところがある。

 日本の国にとって、有用なことだけしかやらなかったのが、生きていたときの安倍元首相だったのかといえば、そうとは言えそうにない。有用ではないことも色々にやったのがあるだろう。無用なことや有害なことだけを、生きていたときの安倍元首相がやっていたのだとするのは、言いすぎだけど、無用なことや有害なことも色々にやっていた。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 死を、日本の国に意味づけたり、日本の国の回路の中に入れたりしづらいのは、日本の国が何なのかがよくわからないのがあるためだ。日本の国が、自明なものとしてあるのであれば、閉じている。いまは、日本の国の自明性が失われているのがあり、よくわからない。開かれている。

 安倍元首相の死を、どこまで日本の国に意味づけたり、日本の国の回路の中に入れたりできるのかは、定かではない。そういったように、強く日本の国に意味づけたり、日本の国の回路の中に入れたりするのであるよりも、たんに、個人の死であるのが、安倍元首相の死だろう。個人の死であるのにとどまり、その域を出ないかもしれない。個人の死は、あくまでも個人の死なだけであり、死を、日本の国にそこまでからめることはできないかもしれない。

 個人の死、つまり国との関わりではなくて、個人の死、つまり世界とも言えそうだ。国は、部分の集合であり、世界は、全体の集合だ。いまは、世界主義(globalization)がすすんでいるから、個人の死は、国であるよりも、世界との関わりが強い。そう見なすこともできなくはないかもしれない。世界主義によって、国は、閉じているのであるよりも、開かれてきていて、世界にたいして開かれたあり方になってきている。国が国として閉じづらくなっている。

 必ずしも個人の死が国と結びつくとは言い切れそうにない。国よりももっと大きい集団である、世界と結びつく。世界のように大きなものである地球や、さらに大きい宇宙がある。または、国よりも小さい集団である地域や、家のまとまりがある。国(近代の国)がなかったときには、個人の死は国とは結びつけられなかった。いまでも、国は共同の幻想によるものだから、たしかにあるものとは言えそうにない。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司